元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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明治44年 | 1911 | 1月7日 | 山椒小路より出火、稲荷小路・上袋小路・肴町まで焼く。焼死者2名を出す。 | 火事 |
| | 4月1日 | 『出羽お伽噺』の第一編「清川八郎」。第二編「十五里ヶ原合戦」が堀青山堂から発刊される。著者、成沢直太郎。 | |
| | 4月4日 | 町長池田藤八郎が私立酒田幼稚園を山椒小路の青木遊戯園跡につくる。大正6年寺町現園舎に移る。園主池田藤彌、園長酒田高等女学校長五十嵐善作。 | |
| | 5月20日 | 最上川治水調査のため、内務省技師金森鍬次郎が来港する。 | 港 |
| | 6月 | 県輸出米検査所酒田支所が船場町に設置される。 | |
| | 7月7日 | 代議士、池田藤八郎が没する。50歳。本間光貞の二男で、初め光礼という。明治12年上京して同人社に入り、中村敬宇のもとで漢学と英学を学んで帰郷し、飽海郡中学校の英語教師となる。池田家の養子となり藤八郎と改める。明治31年11月酒田町長に推され、特に町営電気事業に力を注ぐ。また郡会・県会議員となり、同41年3月衆議院議員に選ばれ、有力政治家として活躍したが、在任中死亡した。本慶寺に葬られる。墓銘碑は犬養毅の書。昭和10年市役所前に銅像が建てられたが、昭和18年12月、金属回収のため撤去された。(酒田港誌) | |
| | 8月 | 酒田藁工品輸出同業組合を創立する。組合長丹波七五郎。(郷土誌・地) | |
| | 8月 | 中山英則が第5代町長となる。 | |
| | 8月19日 | 酒田商業会議所会頭、白崎善吉が没する。64歳。越前屋白崎五右衛門の分家。代々伝馬町で「菱五」の屋号で呉服商を営む。明治22年以来酒田町会議員となり、ついで郡会、県会議員に挙げられ、同38年商業会議所会頭となる。また、多年消防正副組頭を勤める。部下相謀り44年12月招魂社の傍らに「故酒田町消防組頭白崎善吉君之碑」を建てる。元帥海軍大将伯爵伊東祐亨の題字、須田古龍の撰並びに書。(酒田港誌) | |
| | 9月 | 鶴岡自動車株式会社が創立し、鶴岡・酒田間、鶴岡・清川間に初めてバスが走る。 | |
| | 9月 | 西荒瀬村藤塚郵便局に初めて、電話が架設される。 | |
| | 9月26日 | 酒田・遊佐間電話線が開通する。(遊佐町史年表) | |
| | 9月 | 豊里皇太神社境内に「豊川排水碑」がたてられる。下政恒撰・近藤仙太郎篆額。 | |
| | 10月25日 | 光道の二男光和の長男本間光貞が没する。75歳。本間本家との相続争いを起こす。山手本間の柤。花甫の号で絵をよくした。 | |
| | 12月1日 | 中村書店が酒田のガイドブック「酒田案内」を発行する。 | |
| | 12月12日 | 新町遊郭内の花岡小路の住宅で提灯から出火し、写真館の華影軒を含む4棟全焼、1棟が半焼したほか、消火活動中に屋根から転落した消防夫1名が殉職、2名が負傷する。 | 火事 |
| | | この頃各学校の運動会は長坂(現光ヶ丘)の道路で行われていた。 | |
| | | この年不作。庄内地方は夏に雨天が多く、その上、稲熱病が発生して3割減収の44万石となった。 | |