大正元年(1912)

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大正元年19128月米価暴騰につき米を廉売する。(市史史料編五)
9月山形県教育総会を飽海郡会議事堂に開く。この日教育功労者として物故者米沢藩士神保綱忠、庄内藩士水野元朗を表彰する。(酒田港誌)
10月酒田運輸合資会社がつくられる。
12月西岡周碩が没する。75歳。逾明、宜軒。佐賀蓮池藩の医師で戊辰戦争の折、北越征討に従軍し、その後官途につく。明治2年1月酒田民政局の設置とともに長官として赴任、亀ヶ崎城跡に庁舎を設けて廃藩後の処理に当る。学而館を創立する。
日向橋下流全域が禁漁区となり、大場馬治に鮭の人工ふ化場設置が認可される。(西荒瀬の鮭)
この頃、天正寺町の伊藤四郎右衛門宅で盛んに養老庵社中の句会が催される。盟主四郎右衛門万寿は明治31年、春秋庵幹雄に俳諧を学び、酒田に古池分院を設け北辰社と称す。夏静の没後春秋会の人を合流し、養老庵を名のり、70~80名の会員を擁した。伊藤夏蒼・遠田古竹・田辺北静・桂月庵桂之等が主なメンバーである。
鈴木喜矩弥が伝馬町で靴屋を始める。鈴木は大町生まれで、鶴岡で修業したという。彼の弟子が多くいて靴屋を開業した。ハイカラな人でシンガーミシンも取り扱った。
相馬末吉が上内匠町角(現マルナカ化粧品店)で自転車屋を始める。末吉は鍛冶町の小松鍛冶屋に奉公していて自転車を修理していたという。
この頃酒商にはボート部があり港内で練習をしている。
この頃酒田でも百人一首が盛んに行われる。まもなく練習会として、むらさき会・かささぎ会・むべやま会等ができて鶴岡との交流をする。
本間農場の本間敬治が水稲新品種「酒田早生」をつくる。
庄内の田面積34,063町歩、収穫高65万6535石。(荘内経済年表)
上内匠町に大正亭ができて、芝居・人形芝居・浪曲等を上演する。大正4年5月常設映画館となり、名前も大正館と変った。のちに中央座となる。