元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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大正2年 | 1913 | 1月12日 | 今町の現教会の地に三浦鉄造が牧師館をたてる。日本基督教会。会員39人 | |
| | 1月20日 | 中根淑が興津に卒する。75歳。香亭と号し、幕末の遺臣。明治5年陸軍少佐に任じ同8年病で職を辞した。文部省編纂官となり、数年にしてやめ、しばしば酒田に来て本間家で経書及び天文学を講ずる。父母妻子がなく、遺命により、白骨を三保松原に放った。本間光美は深くその人となりを追慕し、私費を投じて『香亭蔵草』を刊行した。(酒田港誌) | |
| | 2月26日 | 午前11時頃、大浜西方沖で操業中の漁船70艘が風雪で遭難し、宮野浦、新町の漁師1名死亡、8名行方不明となる。 | |
| | 2月 | 酒田教育会が創立される。会長荒木彦助、会員24名。中学生に学事奨励金を出したり高等女学校の寄宿舎経営や教育講演会を開催し、教育の普及を図った。 | |
| | 3月14日 | 両羽汽船が爾霊山丸(887トン)を購入する。 | |
| | 4月1日 | 山椒小路の遠田重吉による酒田と清川を結ぶ乗合バスが運行を開始する。 | |
| | 4月 | ラムネサイダー製造合資会社が設立される。 | |
| | 5月15日 | 港座で代議士、犬養毅一行の政談演説会が開かれ、1,300人の聴衆が集まる。 | |
| | 5月 | 浜中正常院前道路脇に「濱中丘林碑」がたてられる。三好廉撰・黒崎馨書。 | |
| | 5月 | 鉄道院新庄建設事務所技師八田嘉明(酒田鉄道建設の功労者)が来酒する。嘉明は東大工科を出て鉄道院に入り、酒田線並びに最上川駅の建設に力を尽す。のち欧米視察を命じられ、我国における地下鉄道の紹介者として斯界に知られる。(酒田港誌) | |
| | 5月 | 上中町に株式会社魚市場が創立する。社長荒木十一郎。(郷土誌・地) | |
| | 6月26日 | 病気療養のため前日に辞職した中山英則町長に代わり、下政恒が第6代町長となる。 | |
| | 7月1日 | 酒田和洋洗濯業組合が設立する。事務所を組合長の今町163番地小野寺文治宅に置く。(郷土誌・地) | |
| | 7月10日 | 林董が没する。64歳。董は松本順の弟、遊佐升川出身の佐藤藤佐の孫、泰然の子。幕臣林洞海に養われる。慶応2年17歳のとき、幕命により英国に留学し、同4年帰国を命じられ横浜に達すると、榎本武揚が幕府の軍艦開陽丸を率いて品川にあり、依てこれに塔乗す。函館の軍は破れ董も捕えられて青森に護送される。のち赦されて官途につき、知事・大使及び外務大臣等を歴任して勲功がある。 | |
| | 7月19日 | 文博、宗教家村上専精が来酒し、浄福寺で講演する。 | |
| | 7月28日 | 元町長、中山英則が没する。72歳。旧鶴岡藩士、初め邏卒より警部補となり松嶺・狩川等の分署長に轉じ、明治16年鵜渡川原村の戸長となり、ついで酒田町の戸長に挙げられる。町村制発布の後、酒田町役場の書記、助役を経て、同25年以来、三度選ばれて町長として自治の発展に盡す。元琢成第二尋常小学校長で釣竿作りの中山賢士はその次男である。(酒田港誌) | |
| | 7月29日 | 北里研究所部長医学博士北嶋潔等が来港し、医学上の講演をする。 | |
| | 8月18日 | 水戸口原で荘内三郡競馬大会が開催される。 | |
| | 8月25日 | 坂野辺八幡神社に「坂野辺新田記念碑」がたてられる。白崎吉蔵撰書並篆額。 | |
| | 8月27日 | 最上川大洪水、沿岸の集落大被害、損害30万円余(県警察史) | |
| | 8月 | あられ小路(本町二丁目)に日本聖公会酒田ヨハネ教会が創立される。創立者高橋。 | |
| | 9月 | 水上警察署を日和山公園に移す。 | |
| | 9月 | 「新庄内」が総合旬刊誌として発行され、翌年から月刊誌となる。編集者、小野寺棣三郎。 | |
| | 9月 | 飽海電燈所が設立される。 | |
| | | この年凶作。5月より9月まで顕著な冷温現象であった。 | |
| | 10月 | 酒田第三尋常小学校(その後光ヶ丘小学校、現琢成小学校)を浜畑町に新築起工する。 | |
| | 10月15日 | 料亭の相馬屋が今町角でビリヤード場兼洋食店「カフェー金波」を開業する。 | |
| | 10月20日 | 酒田第一尋常小学校を外野町に新築する。 | |
| | 10月27日 | 酒田在郷正米売買組合が設立される。売買場所を新片町小島善次郎宅と定める。組合長は角田佐之七。(郷土誌・地) | |
| | 11月23日 | 山王堂町・中ノ口町に本町二丁目を源泉地として水道が完成する。工費3千円。この頃、八軒町でも米屋町から水道をひく。(山王堂町田中家文書) | |
| | 11月 | 山椒小路に明治商工銀行酒田代理店が置かれる。 | |
| | 12月18日 | 泉流寺で小笠原諸礼式及び熨斗折方、水引かけ方の講習会を行う。講師は中央宗匠下西秀之進道秀。 | |
| | 12月30日 | 本間光美が没する。78歳。光美、通稱外衛、治郎太・壮吉・隼人助、市隠と号す。五代光暉の次男、文久3年家督、三百石騎馬席に列する。戊辰戦争が起ると十万両を軍資金として藩に提供する。戦後、庄内藩主の磐城平転封阻止に尽力、五万両を調達献金する。鉱山司、勧農掛を歴任、明治29年には乾田馬耕を普及させるため伊佐治八郎を招く。30年本間農場をつくる。水稲優良品種の導入、耕地整理の推進に力を尽し、小作人との融和に努力した。遠州流の茶道をよくし、つねに気節を重んじ事に当ると刻苦精励した。人呼んで光丘以来の偉人という。同八年10月隠居して嫡子光輝に譲ったが、家道を廃せず、つねに力を興農殖産その他公共事業に注いだ。(酒田港誌) | |
| | 12月 | 飽海郡耕地整理組合が郡内水田面積の約8割の7438町歩を整理完了する。耕地整理の結果に端を発し、北平田・一條・上田など平田郷6力村の小作人6千人が上田村満願寺に集合し、義挙団(総代漆曽根渡部平治郎)を組織し、各地主に五ヵ条の嘆願書を出す(当地方における小作争議のはじめ)。 | |
| | 12月 | 豊里田村に「豊里耕地整理記念碑」がたてられる。小田切磐太郎篆額・斎藤美澄撰。 | |
| | | 広野村の戸数は299戸。人口は2497人。 | |
| | | 本楯村の茂木辱次郎が稲の新品種「福柳」をつくる。 | |
| | | 豊川園芸組合設立、梨の栽培面積が12町歩。(刈屋梨のあゆみ) | |
| | | 日向川で鮭数百尾を漁獲する。(西荒瀬の鮭) | |
| | | この頃新町高砂屋の清元延正寿(老芸者)が清元・長唄・常盤津を教えている。 | |
| | | 義太夫が大変盛んで、新町には盲目の義太夫語りがおり、教えている。 | |
| | | 生命保険被保険者数344人、保険金額100万6,875円。海上保険被保険者数1,386人。 | |
| | | 保険金額360万8,885円。火災保険被保険者数71人、保険金額3万3015円。 | |
| | | 運送保険被保険者数562人、保険金額18万1,674円。(郷土誌・地) | |
| | | 郵便貯金予金者11,095人、金額33,044円。(上に同じ) | |
| | | 銀行予金者人員不明、金額46万9,599円。(上に同じ) | |
| | | 酒田港からの内国米の輸出量22万8,379石、価格476万7,680円、輸出先は東京・北海道。 | |
| | | 酒田港への外国米の輸入量44,634石、価格736,461円、輸入先は、神戸、兵庫。(郷土誌・地) | |
| | | 酒田港からの清酒の輸出量300石、価格13,200円、輸出先は北海道。輸入は200石、価格は12,000円。輸入先は兵庫。(上に同じ) | |
| | | 酒田の車輛台数、乗合馬車5台・荷積馬車36台・人力車94台・荷車782台・自転車331台・自動車1台。(町役場調)(上に同じ) | |
| | | 船舶入港数は、定期船239回、不定期船269回、帆船46回。(上に同じ) | 港 |