元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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大正3年 | 1914 | 1月11日 | 新町の酒田木材会社第二号工場の火災により、同社が全焼する。 | |
2月26日 | 酒田町会で今後年々若干の予算を学校および市制調査にあてることを決議する。 | |||
3月8日 | 飽海郡義挙団が各村において、小作料軽減要求演説会を開く。(余目町史年表)義挙団は地主側の拒否にあい、闘争は次第に激化し、村々の寺の鐘をつき、筵旗を押し立てて集合し、さらに日和山公園で竹槍と筵旗によるデモを計画したが、酒田警察署の介入で中止となる。 | |||
3月 | 飽海郡農事講習所が設けられる。所長今田元。生徒25名。 | |||
4月 | 商業補習学校が乙種町立商業学校に昇格する。初代校長、五十嵐三作。 | |||
4月 | 幼稚園を本町に移し、その校舎を第三尋常小学校の建築材料に供する。 | |||
4月 | 私立酒田図書館が本町四丁目の旧電気作業所跡に移転する。 | |||
4月6日 | 政治家鳥海哲四郎が没する。56歳。牧曽根村松沢与五郎の四男として生れ、上蕨岡村鳥海午治郎の養子となる。明治37年に衆議院議員に選ばれる。 | |||
5月11日 | 社団法人仏教共済社が仏教の精神に基づき、下台町(元今井産婦人科)に仏教共済病院をたてる。社員には普通・特別・名誉の3種があり、いずれも本人及び家族または使用人は無料で治療する。極貧者や行路病者の治療に当たった。内科・外科・産科婦人科・眼科・小児科、廻診医等があり、6名の医師がいた。院長浅田決(帝大卒)、副院長渡辺英七(京大卒)。社長和田璋雄(勝保関永蓮寺二十八世住職)、副社長大沼籌全(泉流寺三十六世)、協議員小林孫右衛門。開院より同11月30日までの患者数6,630人。まもなく経営に行き詰まり閉院する。 | |||
6月1日 | 持地院境内に銅の大仏を建立する。住職大瀧宗淵の発願と、施主佐藤善兵衛その他有志の寄附に依り、身長4丈3尺(13メートル)の大仏を建立する。本山永平寺貫主森田悟由が新井石禅とともに點眼式に臨む。(酒田港誌)当時、立像では日本一高いと称され、酒田の名物となっていたが、太平洋戦争の際、供出のためなくなる。 | |||
6月5日 | 前逓信次官犬塚勝太郎夫妻及び熊谷直太衆議院議員が来酒、小幡にて歓迎会を開く。 | |||
6月10日 | 豪農伊藤四郎右衛門資言が没する。62歳。幼名得四郎、先代寛衆の四男、明治2年家督する。壮年藩命により北海道の警備隊に入る。晩年俳諧に親しみ、養老庵萬寿と号し門人が多くいた。また、謡曲をたしなんだ。大兵肥満でヒゲのだんなとして親しまれ、上通りの文化発展に尽した。相撲の愛好家でもあった。浄福寺に葬られる。 山脈のあつまるところ秋の雲 萬寿 上日枝神社(酒田港誌) | |||
7月4日 | 大浦農商務大臣が来酒、小幡楼にて懇親会を開く。 | |||
7月18日 | 消防義会酒田支部発会式を長坂松林において挙行する。(上に同じ) | |||
8月1日 | 酒田運送業組合が設立される。組合長は秋田町の高坂石五郎(酒田運輸会社)(郷土誌・地) | |||
9月11日 | 酒田町は酒田共励会と相議り再び酒田奉公義会を設置する。 | |||
9月15日 | 千日堂前字大道添の火葬場から出火、建物の7割を焼失する。 | |||
9月 | 飛島ほむらに「植林碑」がたてられる。酒井調良撰文並書。 | |||
9月 | 利右衛門小路に両羽水産株式会社が設立する。社長小松又三郎。(郷土誌・地) | |||
10月10日 | 内務省土木調査課長岡芳樹が来酒し、最上川筋を調査する。 | |||
10月 | 主要新聞購読者数、国民新聞620、読売新聞18、朝日新聞210、報知新聞132、万朝報83、時事新報129、毎日新聞65、東京日々新聞162、中央新聞158、山形新聞150、酒田新聞600。合計2,327。 | |||
11月 | 帰農者本間古作が没する。68歳。孝太郎・光近・滋徳・楽圃、江戸上野輪王寺宮家の家臣本間光憲(内記)の子。戊辰戦後、新堀に帰る。相場師本間宗久の子孫。 | |||
11月16日 | 飛島丸(木造20トン発動機船)が竣工し、酒田飛島間定期航路が開設する。これ以前は月一、二度の航海であった。 | |||
11月16日 | 南千日堂前郵便局が北千日堂前(臨港線内側)に移転する。 | |||
11月 | 星川興屋神社境内に「記念碑」がたてられる。下政恆篆額・本間光弥撰。 | |||
12月16日 | 酒田、藤崎電信電話共用回線が開通する。(遊佐町史年表) | |||
12月 | 酒田に機関庫がおかれる。大正8年には新庄機関庫の分庫となる。 | |||
12月24日 | 陸羽横断鉄道酒田線が開通し、酒田駅が落成する。駅は谷地田に作られたので、祖父山を崩した砂をトロッコといわれる二軸車の無蓋車で運んだ。線路工事を担当したのは竹内組で、女性の頭であった。初代駅長は福島の人で青木謙である。 | |||
12月30日 | 政治家阿部孫左衛門が没する。41歳。直之助、新堀村に生まれ、二松学舎、東京数学院に学ぶ。衆議院議員をつとめた先代阿部孫左衛門(今吉)の子、明治41年衆議院議員に選ばれた。北洋漁業社長、荘内銀行専務取締役、荘内新報社長、山形自由新聞社取締役。 | |||
義挙団が地主に嘆願すること120数回におよび、ようやく尖鋭化する。 | ||||
この頃、米屋町の竹内丑松が自宅に「竹内道場」をつくり、夏季には中央から高野佐三郎・菅原融等を招いて剣道の錬成会を行い、のちには酒商の体操場を使用、酒商剣道部は全国大会で決勝戦に出場し、その名をとどろかした。 | ||||
開業医数25名。産婆数18名。 | ||||
この年神社数39。日枝神社2、愛宕神社1、皇太神社3、天満神社1、厳島神社1、八雲神社1、秋葉神社8、稲荷神社17、山神社1、伊勢両御神社1、床浦神社1、薬師神社1、琴平神社1計39。寺院数34。真宗17、曹洞宗6、浄土宗6、真言宗2、日蓮宗3。 |