大正4年(1915)

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大正4年19151月酒田町章(図案考案者上内町杉原伊兵衛ほか)。が制定される。昭和38年までの市章。
1月飽海郡会議事堂(のち公会堂)の大改築を始める。工費予算3万9,700円。
1月清川の渡辺登弥太旅館は陸羽西線が通ったことにより客足が途絶えたのでこの頃、今町に移転新築し、酒田ホテル(渡邉旅館)を開業し、その後繁昌した。
1月17日僧侶、吉泉禅教が没する。法運、落野目村吉泉善五右衛門の家に生まれる。善宝寺三十五世住職。鶴岡大督寺本堂を教場に忠愛小学校を創立し、貧困家庭の子弟を収容し、食事や学用品を支給して教育する。わが国における学校給食の先駆けとなる。明治35年善宝寺に僧堂を開く。大正元年、各宗慈済会会長となり、出獄者の保護に尽す。入寂後、善宝寺に埋葬される。
2月5日結氷のため最上川筋一帯の貨物輸送が途絶えていたが、その後の暖気で解氷し、渡船も再開される。
2月23日国民党総理、犬養毅が代議士候補伊東知也の応援のため来酒し、小幡での推薦会に出席する。
2月24日川上貞奴一座が来酒し、港座で公演し、人気を博する。
2月中吉田鹿嶋神社境内に「記念碑」がたてられる。堀熊太郎撰井書。
3月町会は御即位記念として日和山公園の改良増設を決議する。公園は東南出羽の三山を背景にして庄内平野と最上川を望み、西は酒田港、日本海につらなる絶景の地である。寛政以前は日和阜、文化10年より日和山と称し、また卜晴台といった。同年常夜灯を設置し入船の目標とする。寛政以前より方角石がおかれていた。明治23年以後公園の名称を附した。同所の西方を陣屋という。河村瑞賢の創設した幕府の御米置場、倉庫跡である。昭和2年5月16日、本県第107号をもって史蹟名勝地と指定される。(酒田港誌)
3月4日浜町で2戸を焼く火事が発生し、焼死者2名を出す。火事
3月5日前蔵相高橋是清が来酒し、港座で政談演説会をひらく。(上に同じ)
3月8日農商務大臣河野広中が来酒し、港座で政談演説会を行う。(上に同じ)
3月26日日枝神社社司、『飽海郡誌』の著者、斎藤美澄が没する。59歳。美澄は秋田町根上徳治の二男として生まれ、上日枝神社社司斎藤清澄の養子となる。幼いころから神童と称された。神保竹涯の門に学び、のち飽海郡書記、酒田小学校教員を経て、国幣中社大物忌神社宮司となる。明治33年飽海郡長の嘱託を受けて、『飽海郡誌』十巻を編纂する。かつて大和神社の宮司のとき、小牧奈良県知事の依頼をうけ、『大和誌料』十二巻を編纂する。その他『贈正五位本間四郎三郎光丘翁事歴』『本間家家誌稿』等著書が多い。海軍中将矢嶋純吉はその実弟。有志相議って龍厳寺に碑を建てる。小牧昌業の篆額、遠藤宗義の撰文、本間光弥の書。(上に同じ)
3月宮大工菅原藤太が没する。69歳。漆曽根の渡部喜左衛門の二男として生まれる。22歳の時菅原家に婿入りし、後、上曽根の大工について修業する。代表作に浄福寺や下日枝神社随身門等がある。
4月12日本県漁撈指導船月山丸の竣功祝賀会を小幡で開く。
4月25日新庄・酒田間の鉄道開通式を行う。来賓千数百名。日和山公園に設けられた特設会場には万国旗を飾りつけ、今町・新町の芸妓140人が出演して、祝賀芸能大会を開く。
4月臨港線最上川駅が開通し、祝賀会を行う。
5月9日大正元年に上内匠町に開館した演芸館大正亭は、芝居・人形芝居・浪曲等を上演してきたが、この日から常設映画館となり、名前も大正館に変える。大正11年4月からは中央座となる。
5月15日酒田水難救済所が水上警察署に合併される。
5月29日浄土真宗寺院が宗祖見真大師親鸞聖人の650年御遠忌を浄福寺で催す。
6月8日旧庄内藩主正二位伯爵酒井忠篤が没する。63歳。幼名繁之丞、左衛門尉と稱す。書道に長じ蓬堂また拗鳴と号する。忠発の第四子、忠寛の後を承ける。(酒井家系図略譜)(酒田港誌)
7月2日内務省土木局長小橋一太が来酒し、最上川及び河口を視察する。
7月鶴田大堂神社に「紀功碑」がたてられる。堀熊太郎撰並書。
8月17日庄内治水期成同盟会発起人会を飽海郡役所で開催する。(余目町史年表)
8月酒田第三尋常小学校が、安祥寺裏から浜畑(現琢成小学校の場所)に新築移転する。
8月大町皇大神社に「耕地整理記念碑」がたてられる。小野寺温栄撰・堀熊太郎書。
9月12日法学博士平田東助が来酒し、船で最上川及び河口を視察し、夜、瞰海楼小幡の官民懇親会に臨んで講演する。旧米沢藩士、本姓伊東、平田の養子となり、号を西涯また九皐山人と稱する。獨・露に留学し、帰朝の後貴族院議員・枢密院顧問官・農商務大臣・内務大臣及び内大臣を歴任し、地方自治体の改善、産業組合の発達に力を注ぐ。工学博士伊東忠太は実弟である。(酒田港誌)
10月15日架換工事が完了し、両羽橋の開通式を挙行する。(余目町史年表)
11月6日御大典を記念して建設された酒田高等女学校同窓会館が完成し、開館式が行われる。
11月7日4月から着手した郡会議事堂の改築が完成する。工費33,640円。県土木課の設計、中央を議事所にあて、左右に参与員室を造り、2階建とし、階下両側に控室を設けて公会堂として使用するにも十分にした。敷地1,369坪8合、総建坪248坪。収容人員1,500人と称した。のち公会堂として使用。代表的な大正建築であったが、昭和20年7月建物疎開で取り壊す。
11月8日日和山公園の改修工事地鎮祭と起工式が行われる。
11月10日大正天皇の御即位の御大典を祝って各町では齋竹しめ縄をもって飾り、いたる所に緑門が建てられた。ことに町役場前には菊花、色電灯の大緑門がとりつけられ、昼は旗行列、夜は提灯行列を行った。
11月10日漆工芸家、斎藤与惣右衛門が没する。51歳。鷹町の人で代々漆塗りを業とする。門人が泉流寺に碑を建立する。
11月桜小路に後藤喜五郎による洋食店、喜月園(カフェー喜月)が開店する。
本間光輝が光ヶ丘砂防林が老境に入ったので、植林専門家の説を参考にして六十年輪伐の計を立て永久保護策をたてる。(酒田港誌)
西荒瀬の耕地整理が完了する。
御大典記念事業として、山形県自治講習所が設立され、加藤完治が所長となる。後年、酒田商業学校でも加藤所長をよんで講習会を開く。
能楽笛の長命流十代目の当主、長命新蔵が稲荷小路三浦かね方で没する。84歳。新蔵は以前から伊藤四郎右衛門家に寄寓し、同家の寛楽林で悦太郎・得三郎・欣四郎等に笛を教える。ある夜、奥好義と長命新蔵との笛を聴く会が伊藤家で開かれたという。
芸能の功労者今咲屋咲江の還暦謝恩慈善演芸会が演芸会員一同によって盛大に行われる。咲江は安政2年今町に生まれ、藤間流の踊、山田流の箏は宗家の許を得る。大正4年、上の山で花柳寿三郎の踊りを見て、その新しさに魅せられ、彼を酒田へ招き花柳流を広める。大正15年10月24日没、72歳。善導寺に碑がある。
セメントの使用普及はこの年頃よりか。(余目町史年表)
飛島で鰯流し網を始める。これより鰯の漁獲高が急激に増加する。海苔増殖のためセメント面を造成する。(飛島誌)