大正5年(1916)

年号選択
 
元号年月日事項文キーワード
大正5年19161月9日今町のカフェー金波で新年撞球源平競技会が開かれ、小山太吉など10人がビリヤードの腕を競う。
1月大多新田、四所神社境内に「紀年碑」がたてられる。堀熊太郎撰文並書。
2月26日現職の酒田町長、下政恒が没する。67歳。旧米沢藩士、九代目飽海郡長となって陸羽横断鉄道酒田線を開設するために尽瘁した。
3月本間光輝が酒田築港期成同盟会に金4千円を寄附する。(酒田港誌)
4月19日漁業家青山嘉佐衛門が没する。80歳。天保8年飽海郡青塚村に生まれる。23才で蝦夷地に渡り漁夫となって精励する。のち独立して漁業を営み、北海道有数の漁業家となる。明治41年漁場を委せて帰郷、150余町歩の農地を買い求め大地主となる。酒田出町に豪邸をたてる。西遊佐願専寺に葬られる。
4月24日山形県臨時県会において、最上川治水問題を議決する。(余目町史年表)
5月7日飽海郡耕地整理事業は予定の8千町歩が完了したので、この日、農商務大臣河野広中の臨席を得て、竣功式を本間家別荘で挙行、その直会は盛大を極めた。
5月8日午後10時半、鵜渡川原の最上町から出火し、民家43戸、寺一力寺、小屋11棟、焼死3名の大火事となる。火事
5月22日本町三丁目に飽海郡役所を移転新築する。庁舎が郡会議事堂と離れているため、本間光輝とはかり、その所有地である議事堂の西隣と郡有地を交換して、ここに建てる。階上に貴賓室を設ける。建坪350坪4合6勺、工費1万5千円。その後、町役場、ついで市役所となり、昭和39年9月新庁舎完成により解体する。正面玄関の所は余目にある最上川土地改良区に売却する。
5月25日志士斎藤元宏が没する。30歳。飽海郡山谷村に生まれる。大正4年蒙古王巴布札布が満蒙独立のため挙兵したのを聞き、軍職を辞して現地に赴き参戦した。翌5年ホロンバイル高原で戦死。陸士同期の石原莞爾ら有志が昭和9年日和山に彰徳碑を建立した。いまは招魂社境内にある。
6月本間家が酒田町立甲種商業学校新築費として金1万円を寄附する。(市史史料篇五)
7月上旬酒田町長が農博星野勇三(羽黒町出身)および農学士前川徳次郎に日和山公園改造設計を嘱託する。
7月6日酒田駅に酒田電信取扱所が設置される。
7月25日7月17日に実施された町長選挙の結果、中村弘が第7代町長となる。
8月1日松井須磨子が愛人であり恩師である島村抱月とともに来酒し、港座において「復活」を上演する。(市史史料篇七)
8月5日小倉金之助が数学の研究「保存力場における質点の経路」の論文により理学博士となる。
8月文博、井上円了が来酒し講演する。
9月25日稲荷小路と山居倉庫をつなぐ山居橋がかけ替えられる。
10月山形専売支局酒田出張所となる。
10月14日徳川頼倫が来酒する。日本図書館協会総裁、日本弘道会副会長。坪谷善四郎等とともに10月9日、山形市主催第11回全国図書館大会に臨み、また一行とともに来酒して講演する。翌15日小幡に、弘道飽海支会を開いて招待す。時に本間家所蔵の「四方喜賀志満」転封事件の絵画帳を見て歎賞し、借りて東京に帰り幻燈を造り、貴紳名士を華族会館に招いてこれを示し、自ら説明の労を執る。(酒田港誌)
10月27日内務技手石井虎治郎が没する。61歳。明治18年8月内務省最上川治水工事を起し、同25年竣工、その間専ら工事を監す。同34年11月、本県有志相謀り、「石井君治水紀功碑」を日和山公園に建てる。東久世伯爵題額、依田百川撰文、巌谷修の書。墓は龍巌寺にある。(酒田港誌)