大正6年(1917)

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大正6年19172月9日歌会「みなぎり会」が新町桜井嘲花宅で開かれる。同人白旗浩蕩・桜井嘲花・徳田鼓子・村田敏雄他。
2月15日町立乙種商業学校が甲種に昇格する認可が下り、4月から甲種商業学校となる。校長、稲村修造。
7月4日7月4日から5日夜にかけて144ミリの降雨量となり、赤川流域の広野周辺で水田300ヘクタールが冠水する。京田川流域では同じく水田200ヘクタールが冠水する。7月2~5日の総雨量は飛島で195ミリ、酒田で198ミリ。水害
8月1日飽海郡立物産陳列館が本町三丁目郡会議事堂2階に開館する。
8月6日歌人若山牧水が来酒する。
 酒田滞在二日 八日午前四時半河口を出る
 渡津丸に乗って私は酒田を立った(中略)
 日よく晴れて海は黒いほど碧い(中略)
 天の一角には丁度いま別れて来た河口の濁りの様に
 円を作ってうろこ雲が白々と輝き散っている
「北国紀行」
 砂山の蔭に早やなりぬ何やらむ
 別れの惜しき酒田の港
「さびしき樹木」
宮崎に生まれ、生涯旅と酒を愛した歌人。大正6年8月6日の夕刻、秋田歌会出席の帰り新庄より汽車で酒田に着く。折悪しく停電のため暗い中を遊廓にあがり、風にゆれる燭台の下で酒を酌み、女達の踊るおばこ節を見ながら旅情に浸った。
8月7日内務大臣が最上川改修工事の施工を告示する。大正15年までの10ヵ年工事、工費820万円。うち山形県負担額219万円。
9月3日最上川改修土地収用事務所が酒田におかれる。
9月12日戊辰戦争従軍酒田町殉難者五十年祭を行う。戊辰戦役以来50年にあたるのを機会に有志が協議して、酒田町長中村弘を委員長とし、新築中の酒田第三尋常小学校を会場に充て、旧藩主酒井忠良の出席を請い、下日枝神社社司本間窈吉を斎主として盛大な祭典を行う。別室に遺物その他参考品を陳列して、一般に縦覧し、記念出版の『戦役小記』を参会者に配布する。明治元年9月12日は椿台に次ぐ関川の激戦当日で、酒田町兵の死傷が多かった日であるので特にこの日を選ぶ。(酒田港誌)
9月17日政友会総裁で、衆議院議員の原敬が来酒。「午後3時頃、自動車にて出発、酒田に赴き途中雨にあう。酒田にて、亀崎楼に投宿。夕に最上川の河口を視察せり。内務省より出張の技師も、小蒸気に同乗説明せり。河口は15尺の深さに浚渫する見込という。帰途、公園を見る。晩に、小幡楼にて官民合同の歓迎会あり。この地も曾遊の地なれば、当時の事柄などを始めとして、今後当地は発展の望みあるものなりとの趣旨を演説せり。右終て、党員より宇八楼に招かれて出席す。」(原敬日記)
10月合資会社浜商店が酒田支店を廃止する。
12月14日税務署が稲荷小路から本町七丁目西南角7番地に移転する。
12月16日本間光弥が片町の敷地2,537坪を寄付し、同地に新築された酒田町立甲種商業学校校舎の落成式が行われる。また同じく片町に新寄宿舎が建てられる。(酒商八十年史)
12月合資会社飽海電灯所が本町に創設され、主に酒田町以外の町村に電気を供給する。
12月山形県知事添田敬一郎が築港の急務を思い、大風雪を冒して来酒し、河口を調査する。最上川と酒田港の切離し策は彼の唱導によるものである。
12月浜中字小浜に「好果翁寿碑」がたてられる。原煕題額・大森豊雄撰文・黒崎馨書。
本楯村に農業倉庫が設立される。
義挙団団長渡部平治郎が日和山公園で、嘆願達成の大総会を開く。(荘内農民運動史)
酒田無尽商会がつくられる。
大正初期より船場町の酒屋板屋(田村)善太郎が下瀬(中島)で牛を放牧し牛乳店を始める。牛は岩手県の小岩井農場から買ったという。板屋は明治35年よりここの地主となっていた。
この頃、東京から藤間勘四郎が度々来酒して藤間流の踊りを伝える。“勘しげ”が名取となる。勘四郎没後は妻の勘四が来て教える。勘四の没後の戦後は勘四郎の弟子の勘寿朗がくる。勘寿朗は藤山寛美の腹違いの兄弟である。
長唄は東京の杵屋勝丸が来て教える。勝丸の没後は弟弟子の勝東治が昭和5年に20歳のとき初めて来て教える。勝東治は若山富三郎・勝新太郎兄弟の父である。
縄小屋を改造し、佐藤吉兵衛が賃貸しの劇場として下内匠町南側へ酒田館を開業する。大正13年7月には宮崎合名社経営による常設映画館となり、大正15年春には電気館となる。