大正7年(1918)

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大正7年19181月4日内務省技師野村年が最上川改修事務所主任を命ぜられる。野村年は京大理工学部卒で、酒田築港や最上川改修に近代工学の力を発揮するものとして期待された。
1月4日最上川改修土地収用事務所に最上川改修事務所を置く。
1月27日酒田商業会議所会頭荒木彦助が没する。67歳。下内匠町の人、米相場師として活躍し、巨富を積む。多年、町会議員を勤めて町政に参加し、最上川改修や酒田築港促進等に功労があり、これを記念して、昭和8年日和山公園に胸像を建設する。馬淵鋭太郎の篆額撰文並びに書。(酒田港誌)
1月31日町会の決議で、町長中村弘より、酒田港修築の請願書を内務大臣後藤新平に提出する。(上に同じ)
1月俳句雑誌「前後」が発刊される。編集者、遠田一路風。同人に伊藤後槻・伊藤楚子・伊藤酉水子・竹内唯一郎等がいた。従来の句形にとらわれない、新しい作句を試みた。竹内・酉水子等は酒商時代、教師の梶原いらかより影響を受ける。
2月22日内務技師坂田昌亮(東大工科卒)が最上川改修事務所に就任する。
2月25日本県知事依田銈次郎が来酒し河港を視察する。警察部長白根竹介・土木課長藤宮惟一とともに、日和山より河港を望み、艀に乗り、中瀬附近より河口を視察する。(酒田港誌)
3月水路教導料金を改正する。
3月村田与治兵衛が第4代商業会議所会頭になる。
4月5日小学校の校名変更をし、再び琢成の名を付し、それぞれ琢成尋常高等小学校琢成第一、第二尋常小学校と改称する。
4月米屋町の豪商竹内丑松が当時棋界の実力者井上義雄八段と対局し、平香二番とも勝ち、将棋八段となる。竹内は囲碁も当時山形県下第一と評された。またこの頃竹内家には関根名人をはじめ井上・大崎八段等天下の棋士が続々と同家を訪れ、将棋王国を築いた。当時、竹内八段を筆頭に白崎為之助三段・伊藤後槻三段等がいた。
5月28日元酒田町年寄上林熊記が没する。85歳。天保7年3月3日鶴岡林七郎兵衛の二男に生まれ、酒田町年寄上林勇右衛門の嗣子となる。戊辰の役では半隊司令となり、町兵を率いて関川の戦いで負傷する。町会議員となって、特に北千日堂前への農事試験場設立に尽力、多年町政に尽した。(酒田港誌)
5月袖浦村各集落に電灯が架設する。(袖浦村勢要覧)
7月渡部平治郎の義挙団活動を記念する石碑を漆曽根にたてる。
8月米価が高騰し、不穏の空気となり、本間家は酒田町に五千円、飽海郡に三千円を寄附する。
9月本間光暉五十回忌に当たり、これまで窮民救済に活躍した本間光輝・白崎良弥の事績を須田古龍撰文により正徳寺境内天保飢饉宝篋印塔に追刻する。
10月酒田米穀取引所が藤島と砂越に支庫を設ける。
10月旧酒田救難所の建物を河口北岸に移し、水路教導所とする。
10月故本間光丘に対し、植林の功により特旨をもって正五位を贈られる。一族の本間光勇はこれを記念し、光ヶ丘松林のうち風倒木や枯損したものをもって「手彫盆」や茶托等を業者に作らせて売り広める。世に「光丘盆」として珍重された。
10月この年の初めから世界的な流行が始まったインフルエンザ(スペイン風邪)は、酒田でも流行が始まり、飽海郡内の各学校が臨時休校としたほか、11月11日から同月30日までの山形県内の感染者数が146,936人、死亡者787人、飽海郡内における感染者21,436人、死亡者116人(感染者は県内11郡で最多、死亡者は最上郡の123人に次いで2番目の多さ)、東田川郡の感染者17,253人、死亡者62人、西田川郡の感染者16,997人、死亡者97人を記録している。(酒田新聞 T7.12.14)
11月22日画家、今町観音小路の加藤雪窓が没する。47歳。名は文則、字は聞卿、達也、蔵鴛軒雪窓と称する。雪窓はその号。旧本荘藩士、加藤久道の子。画を生駒柳屋に学ぶ。年十一のとき祖父久恒に随い酒田にくる。また諸国を遊歴し、再び酒田に来て今町にすむ。書や畫をもって生活をする。のち橋本雅邦の門に入り名声を揚る。数年にして酒田に帰り、禅的作品を多く描いて黄檗宗の高僧紫石禅師と交わる・秀作「釣艇夕照図」は東宮殿下の御買上となり「擔薪読書図」は宮内省の買上となる。(酒田港誌)
11月熊手島神社境内に「開闢紀年碑」がたてられる。堀熊太郎撰並書。
12月2日小山太吉経営の旧荘内銀行(秋田町)が統合により、鶴岡銀行酒田支店となる。
12月15日映画館中央館(館主長浜貞之助、営業主宮崎章)が上内匠町に開館する。
12月16日大内青巒が没する。73歳。青巒は仙台の藩士。名は退蔵、藹々居士と号す。河野敏謙の委嘱に依り、森藤右衛門の太政官に提出する酒田県秕政控訴文を草按する(本人直話)。同37年夏、三浦屋に宿り、海晏寺で講演する。「修証義」のもとをつくる。(酒田港誌)
市制施行準備のため鵜渡川原村との合併交渉が始まる。
片町の新井田農場が亀ヶ崎に移転する。
最上川改修事務所では最上川改修に伴い、積年の洪水に悩まされていた赤川の改修工事を決定した。しかし、この計画によると百町歩以上の農地がつぶれ、30戸以上の農家が移転を余儀なくされ、黒森・坂野辺・十里塚・中村・下中村・奥井新田の6部落は大打撃を受ける。そのため農民たちは黒森西山を掘って、赤川をまっすぐ日本海に流す対策案を示して工事計画の変更を求めたが効果がなかった。このとき秋田県選出の衆議院議員榊田清兵衛と知りあい、榊田の尽力により計画は農民案のとおり変更され、昭和2年完成をみた。喜んだ農民たちは、同3年11月11日奥井新田三所神社境内に翁の顕彰碑をたてた。
東平田信用組合がつくられる。
この夏頃より菓子店頭にビスケットが出る。(余目町史年表)