大正10年(1921)

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大正10年19211月21日本間光輝が恩賜財団済生会(明治天皇賜金による医療目的の財団)に8万円を寄付する。
1月27日文博、忽滑谷快天が来酒し、海晏寺および公会堂で仏教講演会を開く。
1月東京美術学校教師で、本町生まれの根上富治の絵が初めて帝展に入選し特選となる。
2月3日抒情詩人で画家の竹久夢二が1月30日来酒し、今町今咲屋に泊り、2月3日宇八で展覧会を開催したほか、今咲屋で頒布会を催し、2月18日まで滞在する。10月再び来酒し、台町の宇八に翌年まで泊る。その間象潟旅行をする。宇八(現山王くらぶ)の茶室は夢二が愛用したという。昭和5年3度酒田にくる。夢二は酒田を深く愛した。酒田には彼の画が多い。酒田の洋服屋後藤助太郎の紹介で本町の富豪森重治の知遇を受ける。山王森に文学碑がある。
2月27日飽海郡会議事堂を会場に山形県青年雄辯会地区大会が開かれる。(松山町史年表)
2月私立図書館が海晏寺の瑞泉庵に移転する。
3月23日上内匠町の3つの映画館(大正館、中央館、巴館)を統合する目的で作られた酒田演芸株式会社が公会堂にて設立総会を開く。専務取締役宮崎章、常務取締役斎藤近尚、相談役中村弘、佐藤良次。
4月上市神小公園に「田祖有神」がたてられる。本間光弥篆額、本間光勇撰。堀熊太郎書。
5月最上川河口改修工事の一部を変更して、酒田港修築工事を施工する。
黒森山を開さくし、赤川水を放出するに決する。また港の修築工事を2ヵ年延長し工費150万円を追加し、5月18日内務大臣当築港を認可す。最上川を宮野浦より放流し、旧河口を港とするもので、河川改修と併せ行うものとする。(酒田港誌)
この工事は黒森西方の砂丘を切り開き赤川を日本海に流すもの。全長2800メートル、川床の幅100メートル、砂丘の最高点より川底まで30メートルの工事。このとき川底から幹廻り約1メートルに及ぶ樹木の根株や倒木が多くみられる。樹種はクリ・ナラが最も多い。また石斧・石鎗・石鏃・及び縄文土器の破片や炉のあと等が発見され、先住民の遺跡として注目される。
5月9日童話作家巌谷小波(季雄)が来酒し、小幡に泊まる。季雄は巌谷一六の子で、小波と号し、絵画を能くする。お伽噺に名あり、度々来酒して各学校及び学事会において講習会を開く、紀行文『荘内の五日』(「俳味紀行:山から海」所収)がある。
 葭切や鳥海晴れてちぎれ雲  小波(酒田港誌)
5月12日文学博士黒板勝美が来酒する。聖徳太子一千三百年御忌酒田奉賛会は、黒板博士を招いて、飽海郡会議事堂において講演会を開く。
5月23日海軍大将八代六郎が来酒し、飽海郡会議事堂で講演会を開く。
5月24日法相宗管長奈良興福寺住職大西良慶が来酒する。飽海郡会議事堂において酒田仏教会と有志者共同で講話会を開く。その後数回来酒する。産科医桜井晋は大いに私淑する。中町の善右衛門に大西が描いた観音像の掛物がある。(酒田港誌)
7月4日舞鶴鎮守府司令長官海軍中将佐藤鉄太郎(鶴岡出身)の講演会を郡会議事堂にて開催する。その後度々来酒して講演する。光丘文庫玄関の横額をはじめ酒田には中将が書いた社標が多い。
7月4日前日、酒田港に寄港した海軍の戦艦薩摩の乗組員対酒田商業学校及び酒田実業団の野球親善試合が日和山公園で行われ、薩摩側の大勝となる。また、夜間は日和山公園にて海事思想普及のための映画を上映する。
7月内務省による最上川改修工事に伴い、最上川の中央にあった巨大な中洲である下瀬に明治以降に移住して農業や漁業を営んでいた8世帯と地主で牧場と牛乳店を経営していた田村善太郎等は、内務省と鵜渡川原村の協力により、埋立工事の結果新たにできた中瀬町(現在の堤町)に移住する。
8月5日5日以来豪雨のため最上川増水13尺余(3.9メートル)に及ぶ。赤川氾濫、諸河川大洪水、赤川上流で総雨量500ミリに達する。家屋、田畑などの被害総額500万円。水害
8月8日淳宮・高松宮両殿下が東北御見学の途中、本間家別荘に御泊りになる。両殿下御同列で光ヶ丘松林、日和山公園、下日枝神社境内御通過、山居倉庫に御出になる。(酒田港誌)
8月13日内務省港湾課長三矢宮松が来酒し、小幡で招待会を開く。
8月22日山形県知事森本泉が水害調査のため来酒する。(酒田港誌)
8月28日光ヶ丘を会場に山形県連合青年会総集会飽海地区大会を開催する。(松山町史年表)
9月8日上内匠町の3つの映画館を合併するために大正館は廃業、中央館は改築のため休館し、翌春までは巴館のみの営業となる。
9月10日大地主森重郎が没する。64歳。竹堂。松山斉藤弥右衛門の三男として生まれ、本町の大地主森藤十郎の養子となる。町会議員。小作人に対する思いやりが深く、人望があった。画をよくする。大正10年放浪の抒情画家竹久夢二を酒田によんで滞在させ、その面倒をみた。大信寺に葬られる。
9月14日鉄道省次官石丸重美は古市秘書官を連れて来酒し、当地方の鉄道状況を調査し、小幡での歓迎会に臨む。(酒田港誌)
9月14日一道東北八県連合海洋調査協議会を、飽海郡会議事堂で開催する。(上に同じ)
10月7日最上川改修付帯工事として黒森山を掘削、赤川を日本海に放流する赤川掘割地鎮祭を、袖浦村黒森において行う。(上に同じ)
10月9日秋田選出の代議士榊田清兵衛が赤川起工式に出張の帰途来酒する。
10月10日吾妻屋辰枝が没する。85歳。天保8年今町に生まれ、芸妓となる。明治2年酒田民政局会計官山本友右衛門に愛され、3年、友右衛門に伴われて東京に行く。まもなく友右衛門の死にあい、その後、浄瑠璃を播磨太夫、常盤津を常盤太夫、太棹を鶴沢文蔵、踊を藤岡よし、森田勘弥に習う。明治8年帰郷後、諸芸の師匠となり、酒田芸能の発展に尽した。新町芸妓に藤間流を伝えた。今咲屋咲江は姪である。善導寺に寿碑がたてられている。
10月18日童話作家久留嶋武彦が来酒する。酒田高等女学校有煒会主催の下に、飽海郡会議事堂で講演会を開く。
10月政治家加藤高明・江木翼・関和知等が来庄し遊説する。
11月1日鵜渡川原郵便局が横道町(現在の戸沢町自治会館付近)で三等郵便局として業務を開始する。
11月3日酒田中学校校舎竣工式を挙行する。本県知事森本泉の式辞、山形県会議長高橋勝兵衛の祝辞等がある。
11月9日医師大平禎作が没する。67歳。(本町五丁目)号を翠翁と稱す。安政元年、佐渡国相川町に生る。代々佐渡奉行所の詰医師。7歳の時、奉行所に召されて論語を講じ、9歳にして丸山溟北の門に入って漢学を学ぶ。のち東大医学部の助手となって研学し、明治13年4月、酒田で開業する。同41年より大正8年まで、飽海郡医師会長を勤続。九州医科大学教授医学博士大平得三はその長子で、医師大平祐次は二男である。
11月14日内務省土木調査課長兼東大教授工学博士近藤虎五郎が来酒し、野村・坂田両技師の案内で、酒田河口改修工事を視察する。
11月14日庄内三郡の有志が、贈正五位本間四郎三郎光丘翁頌徳会を組織する。
11月26日前代議士伊東知也が没する。49歳。名は明・字は士徳、懐亭鳳南と号する。知也はその通稱。本町の医師伊東清基の長男。東京専門学校で政治学を修め、傍ら須田古龍について漢籍詩文を習得する。円覚寺の釈宗演に参禅する。露清語学を研究して、露国に渡り、また台湾より南清に入り、革命志士と交わる。しばしば満州を歩き、大陸経営の策を講じ、のち衆議院議員に当選すること2回、大陸経営の策を提げて議政壇上にさけぶ。普通選挙唱道先駆者中の一人。辛亥革命に参画し、孫文らと交わって「支那浪人」と称され、犬養毅・杉浦重剛・頭山満らの知遇を受ける。雑誌「日本及日本人」の記者として活躍する。
11月27日浜畑町に新築の琢成第二尋常小学校の落成式を挙行する。
袖浦耕地整理組合が設立され、宮野浦の開田事業を行う。
11月持地院脇の今町交差点と新町をつなぐ道路新設工事が竣工する。
12月1日朝6時、飛島村民を乗せて冬ごもり用の米その他を満載した漁船が吹浦を出航、途中大暴風にあい転覆、9名が死亡する。
「大正全国富豪番付」によれば本間光輝は東6位で、一千萬円とある。
庄内藩祖酒井忠勝入国三百年記念祭を行う。(鶴岡の歩み)
帝国水難救済所飛島支所が設置される。共同出資により発動機船を買入れる。(飛島誌)
東禅寺沼の埋立工事が竣功する。このとき五輪塔・かけ仏・殿鐘等が発掘される。
この頃、本町警察署脇のポンプ小屋に本町組第六分団所属の蒸気消防車が備え付けられる。これは酒田唯一の最新式のもので各火災場で威力を発揮した。
この頃、箪笥業者は70軒を超え、職人は二百余名もいた。大正12年の関東大震災以後は金具の小さい東京式に改められる。この頃、本間家や伊藤家等の後援で、鉄砲屋浅吉・三ッ林源治・齊藤兼吉等の名指物師が出る。
薩摩琵琶正派の上林豊治を中心に内匠町の白崎喜一郎らが練習を始める。
内務省土木技監原田貞介が来酒し、野村技師の案内で最上川下流を調査する。(酒田港誌)
浜中出身の早坂留蔵が、アメリカよりメロンの種を送り、浜中で栽培される。(目で見る荘内農業史)