大正11年(1922)

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大正11年19221月本間光丘を祭神とする光丘神社創立運動がおこる。先に酒田町長中村弘を会長とする光丘翁頌徳会を組織し、事業資本5万円の寄附募集を展開する。これに対し、池田正之輔ら庄内出身の在京大学生二十余名が中心となって反対運動を行う。
1月4日荘内貯蓄銀行が開業し、秋田町の六十七銀行酒田支店内に酒田支店をおく。(荘内銀行百年史)
1月10日シベリア経由で日本に来たポーランド孤児救済のため、酒田高等女学校を会場として、イアン・コバリスキー氏によるバイオリン・マンドリン独奏会が開催される。
1月15日鵜渡川原処女会の発会式が多数の来賓を招いて亀ヶ崎小学校で行われる。
1月浜中正常院前に「濱中邨業功績之碑」がたてられる。鶴岡鳥海良邦撰並書。
1月22日文人菊池リウが没する。31歳。浄福寺住職菊池秀言の三女。「女子文壇」に投稿してたびたび入賞する。今井邦子・若山喜志子・生田花世らと並び称された。文学者柳瀬夜雨と交わる。美人で出羽の人とよばれる。
2月10日酒田町湯屋組合により銭湯入浴料が、大人5銭、小人3銭に値上げされる。
3月中町の商店会、中和会が設立される。
4月8日上内匠町の3つの映画館を統合するかたちで、酒田演芸株式会社経営により上内匠町へ中央座が開館する。
4月13日本楯大物忌神社の太刀が国の重要文化財に指定される。
4月30日本間光輝が没する。69歳。明治8年、父光美退隠の後を承けて家を継ぐ。同年、旧藩主酒井忠篤に随行して鹿児島にゆき、西郷南洲の教えを受ける。同22年町制施行により初代町長となる。本間農場・信成合資会社・荘内育英会を創設する。
5月13日文博、宗教家、南条文雄が来酒し郡会議事堂で講演する。
5月18日明治天皇酒田行在所跡記念塔の除幕式が行われる。行在所の建物は明治16年3月、琢成学校とともに類焼したので、町会の決議により、その跡に記念塔を建設する。「明治天皇御行在所跡」の題標は文学博士黒板勝美の書。背記は須田古龍の撰。設計及び頂部に飾られた鳳凰の鋳造は東京美術学校教授津田信夫に委嘱する。この場所は長く廻船問屋尾関又兵衛の屋敷であったが、明治12、3年頃、渡部作左衛門が購入して行在所にしたもの。
5月荘内塩元売捌所が設置される。
6月15日財団法人酒田報恩会が設立される。会長、浄福寺住職菊池秀言。
7月13日酒田商業会議所会頭、本町六丁目村田与治兵衛が没する。53歳。素封家五十嵐伝七の二男として生まれ、村田家の養子となる。当時、資産50万円の財産家といわれ、砂糖・塩・荒物類の問屋を営んだ。明治34年商業会議所議員に当選、以来、町会議員・郡会議員にあげられ、その他両羽銀行頭取等に推される。大正7年会議所会頭となる。林昌寺に葬られる。
7月24日早稲田大学飽海同志会主催による早稲田大学学術講演会が徳永重康、北澤新次郎、高橋清吾を講師として公会堂で開催される。
8月2日115ミリの降水によって床下浸水100戸に及ぶ。特に桶屋町・大工町・中町・浜畑町・祖父山下・山王堂町方面で被害が大きい。水害
8月2日酒田(浜町)・観音寺間の乗合バスが市條の池田岩太により開業する。
8月20日新堀村が独自に設置した大字新堀水道の通水式が行われる。
8月荒木幸吉が第5代商業会議所会頭となる。
9月17日医博、市川定吉が没する。44歳。伊藤与兵衛の三男、醫師市川元泰の養子となり、東大医科卒、北里細菌研究所に入り、のち大阪桃山病院長となる。明治45年ドイツに留学する。帰朝後関西地方腸チフス流行のさい治療に従事し遂に感染して没する。大阪市葬にされる。俳句を好み藜杖と号し正岡子規に師事する。(酒田港誌)
10月2日酒田商業が全国中等学校剣道大会に初めて参加し強豪を連破し、3位入賞、「酒商の白袴強し」の名を全国にとどろかす。(酒商八十年史)
10月3日中村弘酒田町長が国有林の松林払い下げをめぐって町の利益より私的な利益を優先したという問題で、酒田警察署の取調べを受けたことから、酒田町差立会を中心に町長弾劾運動がおこる。10月23日には浄徳寺で町民大会を開き、千数百人が集まる。11月11日ついに町長や助役は辞職に追いこまれた。指導者は越島幸一郎・若林安松・三條吉内らである。
10月18日小幡(瞰海楼)洋館(洋食部)が竣工し、百数十人の市内の名士を招き、精養軒で修業したコックによる本格的な洋食による披露宴を行う。10月20日から開業する。
10月24日「両羽朝日新聞」が発刊される。発行者、樋口喜一
10月24日飽海郡会議事堂で、飽海郡学事会主催による学制頒布五十年記念式典が行われ、遠藤宗義が学制頒布前後の飽海地方の教育の状況について講演を行う。
10月酒田高等女学校で初めて制服を制定し、ベルト及び靴を着用する。
10月監獄官制の改正により酒田監獄を山形刑務所酒田支所と改称する。
11月27日「酒田新報」が発刊される。発行者、沢田薫。
11月義挙団が満願寺で総会を開き、解散を決定する。
12月耕地整理による小作料の変動と、耕地整理費の小作人への転嫁が直接原因となり、西荒瀬村と西平田村に小作争議が発生する。指導者、富樫雄太・小島小一郎。
富樫雄太が同志10名を糾合し、初めて日本農民組合鳥海支部をつくる。これにより庄内の農民運動は全国的連繋をもつに至る。
12月15日~16日激しい雷雨と風雪により全市が停電、家屋に損壊があったほか、最上川筋に停泊中の汽船、発動機船など56隻に損害を与える。
小島小一郎が西平田村の争議に参加した小作人と、中平田村・北平田村の小作人を糾合して、浜田耕作人組合(101名)をつくる。
富樫雄太が稲の新品種「泉岳」をつくる。
国会は物価騰貴により、最上川改修費を1500万円に増加する。