大正12年(1923)

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大正12年19231月『唖の小鳥』(小曲詩集)が発刊される。著者、樋口喜一(翅影・新聞記者)。
1月北海道芦別市の開拓功労者佐藤伝次郎が没する。文久3年、片町弥次右衛門の長男として生まれる。明治24年に歌志内に入植、明治26年、パンケホロナイ(常磐)に3万坪を借りて開墾に従事して成功、大正9年以降は水田開発に盡瘁してこれを成功させる。
2月中里重吉が第八代町長になる。
3月飽海郡役所が『飽海郡会史』を刊行する。編著者、佐藤良次。
3月31日『飽海郡誌』十巻が発刊される。編著者、斎藤美澄。
4月1日郡制を廃す。(酒田港誌)
4月3日遊摺部会館敷地内に「遊摺部開田記念碑」がたてられる。本間光弥篆額・本間光勇撰・堀熊太郎書。
4月18日大雨により新井田川が氾濫、鵜渡川原村で85戸が浸水し、村役場で被災者へ炊き出しを行う。
4月酒田商業は五年制実業学校となる。(酒商八十年史)
4月酒田商業に野球部が創設される。
4月斎藤裁縫塾を寺町浄徳寺内に創設する。(現酒田南高等学校)創始者斎藤又治・辰夫妻。
5月2日前農商務大臣山本達雄一行が来酒する。翌3日最上川河口視察ののち公会堂で講演会を開く。
5月酒田高等女学校が創立25周年に伴い、同窓会よりグランドピアノを寄贈される。
6月1日本間光弥が財団法人光丘文庫を創立する。初代文庫長、荒木彦助。光弥は六世の柤光丘の奨学遺志をつぎ、また有志が光丘神社を創立したのに感激し、光丘以来の蔵書並びに建設費及び維持基金を、贈正五位本間四郎三郎光丘翁頌徳会に寄贈し、財団法人光丘文庫を創立する。おされて顧問となり、指導啓発に努める。蔵書のうちでは四代光道が集めたものが多い。本間家のほか、荒木・松井・松浦等の旧家が蔵書を寄贈する。私立酒田図書館からも蔵書を引き継ぐ。
6月5日最上川改修事務所主任技師、最上川改修および酒田築港の功労者、野村年が欧米各国の河身改修並びに築港視察の途中、イタリアのポンペイで客死する。51歳。野村技師は名古屋に生まれ、京都帝国大学工科大学を卒業する。最上川改修事務所開設以来最初の主任技師で、官命によって河川港湾視察のため洋行し、欧洲各地を経てポンペイ視察の途上、自動車が転覆し重傷を負って客死する。同11日、妙法寺において告別式を挙行する。我が酒田の恩人である。白崎良弥著『野村年先生遺稿』がある。(酒田港誌)
7月内務技師、坂田昌亮が最上川改修事務所主任となる。
7月18日酒田・鶴岡を主とし各地に毒蛾が発生する。
8月同人雑誌「群像」が発刊される。編集者、樋口喜一(麹影)。昭和2年5月まで続く。同人は荒木彦太郎・白旗浩蕩・米村久生・遠田一路風・伊藤酉水子・五十嵐華州等である。
9月19日川柳宗匠の井上剣花坊が来酒する。
 八百万ここにも松の一卜柱(光丘神社にて)
 水潦をもって王たり最上川
剣花坊は井上、名は幸一、山口県の生まれ、漢学に通じ文章を能くす。日本新聞・時事新報にその彩管を揮い、雑誌「秀才文壇」を主宰し、のち大正川柳の一派を起す。荒木京之助は剣花坊の風を受ける。(酒田港誌)
10月16日灯台を宮野浦より大浜に移し業務を開始する。高さ9メートルである。
12月天正学校(学而館)創立50周年を記念し、天正寺境内に「明治教育創施之處」の碑をたてる。本間光弥の篆額、遠藤宗義の撰文、白崎吉蔵の書。
地震で倒壊したあと、その竣功がまたれていた安祥寺の現本堂が完成する。同14年に盛大な落慶法要を行う。
補浦村が村営で再び砂防工事を始める。
中村鉄工所で初めての労働争議が行われ、従業員が1日ストライキをする。
この頃二百町歩の大地主、伊藤四郎右衛門が鳥海山麓の石油事業に失敗し、倒産する。田地は佐藤仁吉らの新地主の手に移る。新地主らは新たに反当り約30円の小作保証金をとろうとしたため、北平田村・中平田村・上田村の小作人が漆曽根耕作組合をつくってこれに対抗する。
荘内耕作連盟ができる。(余目町史年表)
農事改良実行組合が設立する。(山形県農事試験場史)
この頃、東京から花柳寿三郎が来酒して踊りを教える。「酒田甚句」「港音頭」等のお座敷用の振り付けをする。寿三郎は戦後も来酒する。
大谷孫一が“芸能勉強会”をつくり、東京から一流の師匠を呼ぶ。この頃から日中戦争までが酒田芸能会が最も華やかだったと思われる。
飛島ではサバ延縄漁業を導入する。(飛島誌)
この秋ころより、おとわやき、福神焼(菓子の名称)が店頭に見え始める。(余目町史年表)