大正13年(1924)

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大正13年19241月財団法人酒田町教育会が設立される。
1月15日節婦菅原楚代が没する。64歳。浜中村農菅原惣助の長女として生まれる。正常院に葬られる。
1月20日酒田小林区署(現酒田営林署)が出町角に完成し、落成式を行う。
1月26日浄福寺の住職、菊池秀言が宮内省から社会事業功労者として表彰される。秀言は明治9年管長の命によって中国に留学し、同14年、北京に駐在して布教に従い、広く学士文人と交わる。のち帰朝して、本山宗制や寺法並びに大谷家家憲の制定委員に挙げられる。同32年11月日本弘道会飽海支会長に推され、同40年、管長より議制局議長並びに本山耆宿を命ぜられる。同44年5月、酒田慈善授産会を設立して会長となり、大正11年6月、授産会を財団法人酒田報恩会と改名して理事、会長に任ずる。(酒田港誌)
2月8日小作争議防止飽海郡町村長会を開く。(県議会史・松山町史年表)
2月11日観世流能楽会「膝叩倶楽部」が創立され、昭和2年まで続く。創立委員伊藤亀太郎・坂部金吾・牧昇・甲崎環。近江町伊藤宅で会を持つ。
3月29日日向村で酒田町営第二発電所の竣工式を行う。
3月酒田町営電気事業誌』が発刊される。刊行酒田町。
産業組合中央会から「家の光」が創刊される。(庄内経済連25年の歩み)
4月西平田南部小学校と西平田北部小学校が統合して、西平田尋常高等小学校となる。
4月落野目で火事があり、8戸を焼失する。(県警史年表)火事
5月13日飽海郡連合耕作人組合連盟が結成される。会長庄司柳蔵。(松山町史年表)
5月15日海軍中将矢嶋純吉が没する。60歳。秋田町根上善治の三男、斎藤美澄の実弟。幼にして鵜渡川原矢嶋晁英の養子となる。海軍兵学校卒。日清戦役に参加して水雷艇攻撃部長となり、日露戦役には第二駆逐隊司令となって殊勲をたてる。大湊軍港築造監督、横須賀軍人団長、及び水雷学校長となり、海軍中将に累進し、我が国水雷砲術の権威者となる。退職後酒田に隠棲し、晩年、東京に移る。(酒田港誌)
5月17日前年5月に着工し、3月に竣工した酒田日本基督教会堂の献堂式を行う。教会堂は、W・M・ヴォーリズ(西日本を中心に数多く存在する西洋建築の設計、メンソレータムで知られる近江兄弟社創業者William Merrell Vories)建築事務所による設計、信徒の池田徳治による施工で、大正13年3月に落成、建築資金は、大正10年に東京で開催された第8回世界日曜学校大会のために来日した際に来酒したアメリカ人牧師Rufus W. Millerやペンシルベニア州ベドフォードの製菓会社経営者Heckelmanが本国で集めた寄附金のほか、宮城県北浦村の鎌田茂助、今町の小松又三郎やその他住民の献金による。また、教会の名称は明治41年から大正4年まで山形を拠点に県内で布教活動を行い、大正5年に東京で亡くなったドイツ改革派のアメリカ人宣教師、ハーマン・ヘンリー・クック(Herman Henry Cook 1878-1916)、を顕彰したもの。クックはオハイオ州ニューノックスビルの出身で、明治35年12月に初来日し、横浜、仙台を経て山形に赴任する。("No Time To Rest"The Story of H. H. Cook Missionary to Japan)
5月25日琢成尋常高等小学校創立50周年を記念する『琢成五十年』が発刊される。
6月1日光丘神社が竣功し、前夜、遷座祭が執行され、続いてこの日、盛大な祝賀会が催された。神社傍らのテント張り宴会場では能狂言、おばこ踊りの余興があり、2万人の参拝者で桜小路や台町は身動きならぬ雑踏であった。10マイルマラソン、光ケ丘では自転車競争、下蔵では庭球、日和山では対鶴岡の野球戦、懸賞仮装行列二等団体50円、個人10円)等が催された。
6月13日酒田商業会議所報が創刊される。
6月20日酒田駅前と鵜渡川原(新井田橋)間(本町経由)、外野町と新町間(中町経由)の本間自動車商会による路線バスが開業する。
6月『本間光丘翁』が発刊される。編集者、安部季雄。
7月31日羽越線が全通する。(余目町史年表)
8月2日酒田尋常高等小学校にて酒田町主催の羽越線開通祝賀会を行う。
8月15日本間家が国立倉庫の敷地として光ケ丘の土地10,122坪5合を寄附する。(市史史料篇五)
8月25日琢成尋常高等小学校で山形県主催の指物講習会を開く。この頃、本間家や町当局では度々講習会を開いて技術向上に努める。
8月紙塑人形家で歌人の鹿児島寿蔵が来酒し、飛島にもゆく。
 最上川を船はいでたり朝なびく州の葦むらの波越に見ゆ
9月1日齋藤裁縫塾が浄徳寺から酒井新田谷地田の飽海郡耕地整理組合事務所内に移転する。
10月本間光勇らが飽海共栄組合をつくり、地主・小作人・学識経験者から各10名の委員を選び、収穫高と小作人の収支決算を調査し、小作料の適正化をはかる。
10月23日漆木工業者円山卯吉が没する。64歳。河瀬屋を屋号とし、上中町で漆器木工を業とする。かたわら古道具商を営む。明治末期には済世学校を経営して貧困子弟に木工徒弟教育を施した。多量の木工品を北海道に輸出する。海晏寺に寿碑が建てられた。相馬屋事件では大泉の命を受けて京都から衣装や道具を集める。
11月28日菊花同好者12名が浄徳寺に集まり、菊の会組織のことを決議し、酒田菊花同好会を設立する。会長西田半三郎。翌14年11月11日~13日、公会堂で第1回菊花陳列会を開く。
総持寺管長、新井石禅は、前後数回来酒、海晏寺で法話をなす。6月11日光丘神社を参拝して
 世をてらすひかりが丘のみやばしらゆるがぬ御代をなをまもるらん(酒田港誌)
酒商水泳部が創立される。酒田水泳界の草分である。早稲田大学の牧直弥がコーチした。
本楯に電灯がともる。
広野新田の大柳の地に大沼があり、文政年間から潅漑に供していたが、その後荒蕪不用の地となっていた。大正10年、払下げを受けて開田を行い、この年、五町五段余の良田を得る。
この年大豊作。