大正14年(1925)

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大正14年19252月19日内務大臣より、山形県知事の申請による、酒田築港計画変更の件が認可される。(酒田港誌)
2月26日出羽銀行が本町三丁目から本町四丁目に移転する。(荘内銀行百年史)
2月池田亀太郎が没する。64歳。浜町池田亀蔵の長男。池田亀三郎の実兄。明治17年洋画の泰斗高橋由一が酒田に来た折その薫陶をうけたという。その後、上京して写真術を学び、船場町で写真屋を開く。酒田における油絵の先駆者。多くの肖像画を描く。
3月16日稀代の詐欺師で、昭和14年1月に水を石油に変えると海軍をだまそうとした本多維富が酒田高等女学校校庭で藁から真綿(絹)をとる実験を行う。同年4月6日に県職員、警察職員、新聞記者等が見守る中、山居倉庫・酒田警察署等で2度目の実験を行う。本多は、鶴岡出身の実業家、榊原政雄のつてで同じく鶴岡出身の佐藤鉄太郎海軍中将の紹介状を持って来酒し、庄内農民の貧困を救うため、ぜひ庄内で工場をつくりたい、と飽海郡耕作連盟の小島小一郎らに持ちかけ、小島らはその気になり資本金50万円で「庄内製綿協会」を設立し、酒田・鶴岡に工場を建設して生産に当ろうと計画し、本間光勇を介して本間家より資金を借用する。ところが本多はその金を持って逃亡したため、農民組合は本間家に多額の借金を背負い、その後、運動もしだいに振わなくなった。
3月24日前代議士本間光義が没する。65歳。天王下に住し、山手の本間といわれる。光義は光貞の長子で、池田藤八郎の実兄。郡会議員、参事会員となり、遂に代議士に推選される。公共事業に尽す。晩年隠退して意を政事に絶ち、果樹を栽える。叔父耕曹、弟藤八郎とともに前後して各議政壇上の人となる。(酒田港誌)
3月28日私立酒田図書館が全蔵書を光丘文庫に寄贈して解散する。
3月酒造業者の金久(金谷久吉)が酒田で初めてラジオをすえつける。
3月飽海共栄組合を解散する。
4月酒田町處女会を創立する。
5月共栄組合の解散後これに代るものとして、本間家を中心に重農主義を掲げて地主側が敬土会をつくる。会長、小野寺源太(地主19名、上層自作33名)。
5月西平田村大宮で、敬土会による計画的な土地取上げに端を発し、日農山形県連の小作人代表11名と敬土会側20名とが大乱闘を展開する。これは庄内地方における最大の小作争議でその絶頂をなすものといわれる。
5月21日光丘文庫は、郷社光丘神社例祭奉祝のためにする運動会に対し、鋒形優勝旗四本を寄贈し、その後女子部を加えたにより優勝牌四種を寄贈する。現在の酒田市体育大会のはじまり。(酒田港誌)
5月錦心流琵琶宗家永田錦心及び浅野晴水を招き、上林咏水・松本筍水・齊藤敞水の教授所開設披露演奏会を港座で開催する。
6月10日今町に酒田報恩会託児所が開設される。
6月14日逓信大臣、安達謙蔵が来酒し、光丘文庫を参観する。
6月郷土史家、阿部正己が『川俣茂七郎』を刊行する。
6月30日酒田町に発疹チフス数名が発生する。
8月大町公会堂で社会大衆党の夏季講習会が開かれる。中央から講師として田所輝明・浅沼稲次郎・加藤勘十・細野三千雄等が来酒する。昭和12年頃まで続く。
8月酒田高等女学校に弓道場ができる。
8月民俗学者早川孝太郎が長く飛島におり、調査の末、『羽後飛島図誌』を出版する。
9月8日増上寺貫主道重信教が林昌寺で法話をする。信教は奇行が多い。関東震災犠牲者のため、自ら飛行機に乗って追悼会を行い、五色の蓮華を天上より撒布する。
9月30日光丘文庫が竣工する。森山式鉄筋コンクリートブロック構造。二階建、社殿造りの本館(251坪)および3階建の書庫。設計者は内務省技師、角南隆(明治神宮)。工費75,798円。
10月1日鳥海電力株式会社がつくられる。社長、中村弘。
10月14日東宮殿下(昭和天皇)が行啓される
陸軍特別大演習統監のため、宮城県下への行啓に先だち、行啓が仰せ出され本間家別荘を泊所と定められる。この日午後1時45分、酒田駅に御着、自動車に召され、三浦本県知事の先導で、日和山公園展望、内務技師坂田昌亮が最上川と酒田港につき、説明申し上げ、徒歩で日枝神社境内に入られ、神社に会釈あって、午後2時につき、説明申し上げ、徒歩で日枝神社境内に入られ、神社に会釈あって、午後2時5分光丘文庫に御出になる。文庫長荒木彦助が館内を先導申し上ながら、本間光丘遺物並びに図書等につき説明申し上る。同2時20分、文庫より光丘神社に向われ神社に会釈を賜い、坂下より再び自動車で山居倉庫に御出になる。理事長酒井忠孝が構内を先導し、説明申し上げ、同2時43分泊所本間別荘に御着になる。重なる供養員左の通り。 内大臣伯爵牧野仲顯・宮内大臣一木喜徳郎・東宮武官長奈良武次・東宮侍従長兼侍従次長子爵入江為守・東宮職御用係式部次長西園寺八郎・行啓主務官東宮事務官木下道雄ほか11名。 翌15日午前8時27分、泊所出門、沿道の奉送者に会釈をしながら、同8時30分鶴岡行臨時列車で発駕される。(酒田港誌)
10月30日大正4年に御大典を記念して建設された酒田高等女学校同窓会館が原因不明の火災により焼失する。
12月12日皇孫殿下の読書鳴弦式のよき日を祝い、誕生の奉祝を兼ね、光丘文庫の竣工並びに開館式を挙行する。文部大臣岡田良平以下数名の祝詞並びに演説がある。
12月飽海・鶴岡・東田川の11農民団体を統一し、農民が大同団結する。(上に同じ)
12月歌人、若山牧水の弟子、米屋町の酒屋白旗浩蕩が没する。昭和5年創作社建立の歌碑が善導寺境内にある。
 うごくともみえぬ白帆はいつしかにありどをかえぬ海の靜けさ  浩蕩
12月21日~22日、低気圧の通過に伴い、21日午後11時半、風速30メートルを記録、羽越線・陸羽西線ともに運転不能となる。住家屋根損壊776棟、電柱倒壊7本。
本間健蔵の作品がフランス政府により日本美術工芸漆器部の代表としてパリー博物館に陳列される。健蔵は蕣華と号し、明治27年4月出町に生まれる。初め業を鶴岡の田村青畝に習い、上京して東京美術学校教授辻村松華に師事し、重なる展覧会及び欧米各国の大博覧会に出品して賞牌を授与される事数回。仏国パリ万国工芸大博覧会入選の作品は、商工省が買上げて仏国政府に寄贈し、仏国政府はこれをパリー博物館に陳列する。その他宮内省、久邇宮家等より買上の光栄に浴する。その後我が国漆工芸界の最高峰となる。(酒田港誌)
上田村に初めて電灯がつく。
本間家の田・畑所有面積は1850町歩である。
この頃「明暗社」という絵の団体があって、今町のキリスト教会等で展覧会を催す。
酒田で一番最初に油絵を陳列したのは佐藤癸巳治だという。その後、高山長一郎を中心にパレット会ができ、公会堂で展覧会を開く。そのあと酒田洋画会ができ、その前後に「くれなゐ会」があったという。(佐藤三郎談)
この頃、染屋小路の髪結本間イワ井が、酒田で初めて洋髪を始める。
大正から昭和前半期頃、酒田遊廓を唄った次のような俗謡がある。
酒田遊廓妓樓によめば 春は三月 さくら屋で 風は松山 嵐は出島 峯より流るゝ三澤屋で 酒は丹蔵で心は吉田 越後洗うは たわらやで あがって 心はさい四郎 連れの行くのは 松村ねもと 帰る浦島 松美屋かけて とんで行くのは北海道