元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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大正15年 | 1926 | 1月18日 | 東宮殿下には宮中新年御歌会始めにおいて、勅題「河水清」に、廣き野をながれゆけれども最上川うみにいるまで濁らざりけりと詠まれる。昭和3年入江侍従長の書になる歌碑が日和山公園に建てられ、同4年山形県民歌となる。 | |
2月 | 海運業者らが酒田臨港会をつくる。本会は河口の浚渫及び埋立地の利用その他これに附随する事業を施設するを以て目的とする。会長中里重吉、副会長荒木幸吉。(酒田港誌) | 港 | ||
2月 | 小島小一郎・牧長治を中心として日本労農党山形県支部が結成される。 | |||
3月 | 同業者組合的な労働組合として、酒田倉方仲仕組合と酒田共同仲仕組合が設立され、酒田港や駅に入荷した豆粕や石炭などの運搬請負をめぐって7月9日午後7時、日和山公園に酒田共同仲仕組合員30余名が集合し、3件を決議し、組合長藤井伝之助に要求して22名が10日から同盟休業をしたが、まもなく切り崩される。 | |||
3月 | 光ケ丘53番地に農林省酒田国立倉庫及び米穀事務所が竣功する。前年7月着工。工事は大阪の鴻池組が請負う。倉庫は6棟・24倉・15,262㎡。全工事費160万円。 | |||
3月26日 | 酒造家加藤長三郎が没する。47歳。千代鶴、本間光貞の四男として生まれ、大山加藤長三郎の養嗣子となる。「加茂川」の醸造に従事するかたわら山形県酒造組合連合会長等をつとめる。大山専念寺に葬られる。 | |||
4月 | 北平田村に初めて電灯がつく。 | |||
4月27日 | 元琢成尋常高等小学校長、五十嵐三作が没する。60歳。慶応3年10月鶴岡藩士に生まれ、のち酒田山王堂町に移住。明治22年、山形師範学校卒業後、鶴岡朝陽学校訓導に任ぜられ、同30年12月本県属に転じ、同33年5月酒田尋常高等小学校長となり、大正12年5月17日退職。酒田学校在職24年間、教育の振興を図り、功績をのこした。酒田商業補修学校の創設につとめ、初代校長となる。書道に長じ、号を宗老と稱する。(酒田港誌) | |||
5月6日 | 日本農民組合山形県連合会が酒田で開かれ、中央から細野三千雄・杉山元治郎等が来酒する。 | |||
5月10日 | 斎藤宇一郎が没する。61歳。由利郡平沢の人。明治17年(19歳)母の実家鵜渡川原佐藤某にあって、琢成中学校に学び、のち東大農林科を卒業する。その後、農業の発達に力を尽した功により藍綬褒章を下賜され、八回衆議院議員に當選し、しばしば酒田に来って講演する。(酒田港誌) | |||
5月16日 | 山居倉庫は東宮殿下行啓記念として、構内に記念研究室を建設する。研究室は米に関する参考資料を蒐集するほか、生産に関する実地の研究施設として酒井家の後援により試作田を設置し、倉庫員をしてこれに当らせる。 | |||
5月17日 | 鵜渡川原村山居町55番地に酒田町火力発電所が竣工する。 | |||
5月 | 18日より2日間、本県港湾調査会を酒田町で開く。(酒田港誌) | 港 | ||
5月 | 荘内耕作連盟が日本農民組合への加盟問題に端を発し、小島小一郎派は日本農民組合山形県連合会、庄司柳蔵派は荘内耕作連盟とに分裂する。(上に同じ) | |||
5月 | 日和山公園にグランドができる。この前野球が米国より入ってきて酒田でも流行する。青年たちの要求もだしがたく、町議会でもついに野球場使用を認めたもの。その後、多目的運動広場として使用される。 | |||
6月6日 | 皇太子殿下行啓記念に新設した酒田商業のテニスコート竣工式を行う。(酒商八十年史) | |||
7月29日 | 局地的な大雨が降り、西荒瀬で浸水家屋が出る。 | 水害 | ||
8月4日 | 前線通過により、3日午後8時ごろから暴風雨となり、酒田全町の交通が途絶がちになる。鳥海山系豪雨のため、4日正午ごろ山津波が発生、遊佐-吹浦間の鉄道線路17キロが洗われる。飽海地方の被害は、死者1名、床上浸水78戸、床下浸水421戸、田畑浸水528ヘクタール、橋梁流失22ヵ所。 | |||
8月5日 | 御歌所寄人武嶋羽衣、大日本歌道奨励会主事大町五城が光丘文庫で歌道に関し講演の後、歌会を開く。 | |||
この前(年月不詳)御歌所寄人千葉胤明、同池辺義象、同武嶋羽衣、並びに大町五城の四氏は佐渡に遊び、酒田に来て村上屋に泊り、翌日、飽海郡会議事堂で歌道講演会を開く。 | ||||
8月15日 | 素封家市原平三郎香邨が没する。85歳。天正寺町で呉服屋を営む。書及び茶道に長じ、鑑識眼があって書画骨董を収集する。町会議員として町政に尽す。 | |||
8月17日 | ~19日低気圧の通過に伴い庄内平野部に豪雨、酒田で総雨量152ミリを記録。18日5時ごろ羽越線不通となる。橋梁流失や田畑の浸水などがある。生石柳沢ではため池が決壊し、7人が死亡する。新片町付近の新井田川堤防が決壊したことにより、酒田駅付近も浸水する。 | 水害 | ||
8月19日 | 詩人野口雨情、作曲家中山晋平、歌手佐藤千夜子が来酒する。これは荒木彦太郎柳号京之助の「ありたけの指が光ってまだ欲しい」「巡業のビラを残して町をたち」の二つに中山晋平が作曲し、佐藤千夜子独唱による発表会を開いたもの。このとき雨情が「酒田小唄」を作詞し、晋平が作曲している。 | |||
8月20日 | 勅選議員前東京商業会議所会頭藤山雷太が公会堂で講演する。(酒田港誌) | |||
8月 | 結城哀草果が鳥海登山に訪れる。 日本海に帯なす 雲の棚引きて 朱き夕日を抱き たるかなや | |||
山形市に生まれ、茂吉に師事し、農民歌人として高名になり、アララギ選者となる。この歌は第四歌集『まほら』所収。山王森に歌碑がある。 | ||||
9月 | 酒田臨港会で船舶入港の便を計り河口に浮標5個を設置する。 | 港 | ||
10月7日 | 画家横山大観が来遊する。自動車で市内一巡、小幡の歓迎会に臨み即日帰る。 | |||
10月 | 新潟土木出張所長新開寿之助が酒田築港工事を視察する。 | 港 | ||
10月24日 | 踊、箏の師匠今咲屋咲江が没する。72歳。安政2年今町に生まれる。善導寺に葬られ、同寺に碑がある。 | |||
11月2日 | 第八師団長陸軍中将菱刈隆が東北特別大演習終了後、両羽橋畔で閲兵式を行う。 | |||
11月 | 三小学校の御真影奉安庫(校倉造)が竣工する。(酒田港誌) | |||
11月6日 | 宮野浦の渡船場で、船頭3名を含む43名を乗せた渡し船が波浪のため転覆沈没し、20人の溺死者を出す大惨事となる。 | 事故 | ||
11月24日 | 有限責任酒田信用組合がつくられる。 | |||
11月27日 | 松本十郎が没する。78歳。諱は直温、始め戸田惣十郎と稱する。鶴岡、戸田治作の次男。のち姓をを松本と改める。明治2年8月黒田清隆に招かれて北海道開拓判官に任じ、累進して大判官となり、公正廉直な施政をしたが、アイヌ人に対する問題で黒田長官と意見を異にし、同9年9月職を辞して鶴岡に帰る。(酒田港誌) | |||
12月5日 | 外務省参政官永井柳太郎(のち拓務大臣)が来酒し、北日本立憲青年党飽海支部発会式に臨んで講演する。(酒田港誌) | |||
この年から市内での中国人による支那そば(ラーメン)の販売が始まる。(両羽朝日新聞) | ||||
中等学生の自転車通学が始まる。 | ||||
日向川川床固堰堤が完成する。 | ||||
埼玉県大宮の清元正太夫が来酒して清元を教える。 |