昭和2年(1927)

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昭和2年19271月15日谷地田に私立酒田裁縫女学校(現、酒田南高等学校)がつくられる。校主斎藤又治、校長太田喜八郎。
1月18日船場町の廻船問屋本間幸四郎創設の自動車会社(本幸バス)が酒田・吹浦間のバスを運行する。(遊佐町史年表)
1月「日刊庄内」が発刊される。発行者、北条祐次郎。
2月16日鳥海電力株式会社が営業を開始する。大正14年10月1日創立、社長中村弘。
2月22日町議会で町長選挙のすえ、中里重吉が再選される。(酒田市議会史年表)
2月漫画家北沢楽天が夫人同伴で来酒する。公会堂で漫画に関する講習の後、宇八において懇親会を開く。池田温雄家に雷が行水中のこどものヘソをとろうと落ちたら、ヘソがないのでびっくりしている画がある。
4月酒田町役場内に酒田町職業紹介所が設立される。(現、公共職業安定所)
4月1日酒田町で計48区からなる区長制度を施行する。
4月29日第1回天長節を祝い、光丘文庫は東宮殿下台臨記念碑の除幕式を挙行する。題字「東宮台臨處」は侍従長入江子爵の揮毫。碑の裏面には国府種徳の撰文、本間光彌の書を刻す。入江子爵(号雨亭)昭和11年3月19日没する。生前奥山亀蔵代議士と親交あり、一周忌記念出版の『雨亭遺墨』の費用も殆ど同氏の負担という。庄内名産の民田茄子及び核無柿も同子爵を通して年々宮中に献上した。(酒田港誌)
4月酒田高等女学校の服装がセーラー服となる。
5月5日アメリカから4月25日に酒田に届いた青い目の人形の歓迎会が公会堂で行われ、町内の3小学校の1年生全員で歓迎し、人形は3校と酒田幼稚園に1体ずつ引きとられた。
5月8日駅前通りに小幡洋食部にいたコックの五味澤利良により小幡分店が開店する。
5月24日酒田高等女学校の主催に依り、公会堂で文部省嘱託安倍季雄の童話会を開く。号を村羊と稱す。鶴岡に生まれ幼にして父に随い酒田に移る。のち東京に出て時事新報社に入り、しばしば酒田に来て童話講演をする。かつて本間光丘翁頌徳会の嘱により『本間光丘翁』の小伝を執筆し、その他著書が多い。(酒田港誌)
5月荒木彦太郎(京之助)の川柳集『京之助句集』が出版され、記念会に川柳作家井上剣花坊が出席する。
6月4日4日から3日間全国米穀大会を公会堂で開く。光丘文庫で『酒田米の歴史』を編さんし、来会者に配布する。
6月荘内倉庫株式会社がつくられる。社長、山木武夫。
6月専売局が塩倉庫建設のため光ヶ丘の埋立地2500坪を県から買収する。
6月1日旧飽海郡役所建物に酒田町役場が移転する。元役場内には9月17日に町営電気部が入る。これより郡会議事堂は公会堂となり、各種の集会や催しものに利用される。酒田町役場が移転する。元役場内には9月17日に町営電気部が入る。これより郡会議事堂は公会堂となり、各種の集会や催しものに利用される。
6月素封家松井権平が没する。53歳。啓太郎。下内町の大地主。町会議員。酒田奉公義会常務埋事。光丘文庫に蔵書2,770冊を寄贈。白崎良弥と石油開発を行う。
7月26日事業家北原直次郎が没する。57歳。酒田木材(株)(通称北原工場)の専務取締役をつとめたほか鳥海電力(株)の社長に推される。地方製材業界の先覚者として知られた。当時動力は挽くずを焚いての蒸気エンジンによるもの。北原工場のものは、公稱百馬力のシーメンス社製で昭和20年まで使用していた。町会議員、商業会議所議員を歴任する。木材は最上川をいかだを組んで流した。
7月赤川の新川開さく工事が竣工する。同日午後5時半通水。
7月30日荘内耕作連盟が「羽越農民新聞」を発刊する。
8月1日黒森・鶴岡間に初めて定期乗合自動車が運行する。
8月7日午後4時半、遊摺部地内で龍巻発生、住宅の屋根を破損。最上川河岸に繋いであった新堀の川舟を上空に巻き上げる。
9月4日本間光正が新たに作った光ヶ丘競馬場の開場式があり、当日の競馬大会には7千人の観客が詰めかけ、観客多数のため観客席が落ちた。
9月山形市主催の全国産業博覧会に町から視察員を派遣し、木工品などを多数出品する。
9月東平田村に産業組合がつくられる。
10月広野村公民館が竣工する。
10月鈴木重蔵の日本画「京のある家」が帝展に入選する。
10月関村で火事、23戸を焼失する。(県警史年表)火事
11月大町溝用水改良事業が竣工する。
11月17日社会運動家、堺利彦の弟子、田所輝明が来酒して、日本労農党酒田支部を結成する。同支部は尖鋭的農民運動を行う。支部長齊藤寿夫、書記長山下貞標、支部党員80名。小島孝吉・竹内丑松・榎本春吉らが幹部となる。この日公会堂に約2千名の聴衆を集めて記念講演会を開催する。
11月30日衆議院議員尾崎行雄(元司法大臣)が子息行輝と「新使命」主筆高野清八郎を連れて、光丘文庫を参観する。(酒田港誌)
12月琢成小学校に、普通教室4、特別教室2を増設する。12月10日落成、工費18600円(酒田市議会史年表)
12月13日内務省技師青山士が新潟土木出張所長に就任する。氏は帝大工学部卒業後、渡米し、パナマ運河開さくに一職工として従事するという実践躬行の人。昭和3年3月6日初めて酒田築港最上川改修を巡視し、その後、しばしば来港して工事を臨検し、指導督励される。(酒田港誌)
12月14日監獄が光ケ丘より新町に山形刑務所酒田支所として移転、翌年3月拘置場と名を変え、酒田拘置事務所、職員官舎とともに竣工する。
12月25日安田銀行酒田支店が洋風社屋に改築される。
12月北千日堂前の畑地を市街地にする計画をたてる。
酒田・大山線に新川橋が架設される。
左翼的指導理論を掲げた日本農民組合山形県連合会が結成され、本県農民運動の全盛期を築く。
酒田町役場職員84名、人口27,839人。(12月末現在)(酒田市議会史年表)
広野村の戸数は333戸。人口は2388人である。
酒田・北海道・樺太間定期航路は大正15年に開始して以来、その航海度数往復十に達する。(酒田市議会史年表)
東北日々新聞「酒田」が創刊する。(酒田議会史年表)
第一回平田杯争奪庄内中等学校野球大会が行われる。(生きた証しに)
本楯農業倉庫が山居倉庫に売られる。(山形県史五巻)
北平田信用組合が創立し、農業倉庫建設運動を進める。(酒田市制50年)