昭和3年(1928)

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昭和3年19281月商工会議所法施行により、酒田商業会議所を、商工会議所と改名する。
1月20日従来の差立の制を廃し、全町を46区に分け、各区に区長をおく。
1月酒田運輸倉庫株式会社が設立される。
1月浜中に全長12間半もある大鯨が寄り捕える。(浜中広岡地区の年表)
1月広野上中村五所神社境内に「大沼開拓之碑」がたてられる。鳥海良邦撰並書。
2月2日地方自治功労者堀熊太郎が没する。68歳。範堂。熊手島の堀半四郎の長男として生まれる。村会議員・県会議員を歴任する。飽海郡耕地整理組合副会長や産業組合長をつとめる。手蔵田長淵寺に葬られる。
2月普選最初の衆議院選挙に弁護士白旗松之助を無産勢力の統一候補として立て、6285票をとり、落選したものの無産勢力の大きさを示した。
3月15日余目のツバメ自動車が余目・酒田間の営業を開始する。(余目町史年表)
3月22日地球物理学者寺田寅彦一行(文部省測地学委員会)が来酒し、大陸移動説による飛島移動を確認するための三角点測量を飛島柏木山頂上を中心に三崎山・飯森山をむすんで、のちに東京天文台長となった宮地政司を主として行う。その結果、わずかづつではあるが動いていることがわかる。 「酒田の町になにがしの役場をたづねて後、最上川口を渡りて対岸なる飯森山に陸地測量の三角点を見に行く。しべりあの雪の奥から吹く風か渡船は帆を巻きおろす霰哉」『羽越紀行』(続冬彦集)
4月1日最上川改修事務所主任内務技師坂田昌亮が新潟土木出張所工務部長に栄転する。熊本県八代町に生まれ、大正2年、東大土木工学科を卒業し、同6年8月、内務技師に任じ、最上川改修事務所主任野村年のもとに次席となる。酒田町会議員を兼ねる。また酒田商業会議所特別議員に推薦される。最上川改修、酒田築港に尽す。(酒田港誌)
4月内務技師坂上丈三郎が坂田内務技師に代って、最上川改修事務所主任兼酒田港修築事務所主任を命ぜられる。福島県二本松町に生まれ、東大土木工学科を卒業し、大正8年7月最上川改修事務所勤務を命じられる。同10年2月、内務技師に任じ、昭和3年6月、酒田商工会議所顧問に推薦され、同8年4月荘内国道改良事務所主任兼務を命じられる。最上川改修や酒田築港は、野村・坂田・坂上の三人による一致協力の賜である。(酒田港誌)
4月本立銀行を本立株式会社と改称する。
4月「大衆日日新聞」が発刊される。発行者、海野光雄。
5月7日全国農民組合創立大会が大阪図書館で開かれ、小島小一郎が参加する。
6月鶴岡市では内川河口を改良して、赤川に合流させることを決する。(酒田港誌)
6月9日鶴岡出身の医師、浦本政三郎(浦本淅潮)が荘内医学会出席のため、荘内に来た際に、瞰海楼小幡で開催された衛生会の懇親会に出席したことを「旅心常住」に書き残す。
8月8日尼僧颯田本眞尼が寂する。84歳。本眞尼は諷田清左衛門の長女として三河国吉田に生まれる。三河国幡豆郡吉田村徳雲寺の住職。各地の災害地へ弟子とともにゆき金品を施与する。隠れた徳行者。明治27年10月22日庄内大地震の際、各地より金品を募集し、浄徳寺に来てこれを罹災者に施す。その後しばしば酒田に来る。本間家をはじめ酒田には尼をしたう信者が多く、梨屋・田村等の民家にもよく泊った。没後有志者は分骨して浄徳寺境内に舎利塔を建てる。南千日町の瑞相寺境内に諷田本眞尼が建てた「震火災横死霊」の碑がある。
8月8日鵜渡川原村議会が酒田町合併の件を決議する。翌9日に酒田町会でも合併を決議する。
8月15日内務技監工学博士市瀬恭次郎が没する。62歳。兵庫県の人、慶応3年6月に生まれる。明治23年東大工科卒業後、土木監督署に職を奉じ、仙台・神戸の土木出張所長を経て、大正13年内務技監に累進する。これより前政府は北日本沿岸に商港築設の議があり、當港は船川港とその選を竸う。明治43年、博士は勝又本県技師を従え、しばしば来酒して河口を視察し、町役場、酒田商業会議所等を訪い、港湾の状勢や輸出入貨物の調査をする。(酒田港誌)
8月貴族院議員太田政弘が光丘文庫に記念品を寄附する。故太田正道の嫡男で酒田出身。東大法科卒業後、各地の知事を経て台湾総督となりのち貴族院議員に勅選される。記念品はかつて警視総監として大正天皇の御大葬に奉仕の際、下賜された勅任官喪服及び附属品。現在は資料館にある。(酒田港誌)
8月文学博士喜田貞吉、法学博士三浦新七、山形師範学校長和田兼三郎を招き、光丘文庫で郷土講演会を開く。(上に同じ)
8月山王堂町斎藤石蔵が斎藤鉄工所(現在の斎藤農機製作所)を創業する。(東高社会部調査報告)
9月17日朝香宮鳩彦王殿下が陸軍大学参謀演習に際し、同校兵学教官、陸軍歩兵大佐として、秋田方面より来酒され、19日まで3日間本間別荘に宿泊する。
9月雑誌「白鴎」が発刊される。編集者、山戸部英雄。
10月日和山公園に東宮御歌碑(県民歌・最上川)をたてる。時の侍従長入江為守の書。
10月村の雑誌」が発刊される。編集者、元泉の富樫広三。
11月10日片町の玉吉妻小松吉代が篠原本県知事より、模範職工として表彰される。吉代は明治19年2月生まれ、養母及び夫に孝養貞節を励み、子女の養育に心を注ぎ、去る大正5年、夫の罹病以来13年の久しい間、女性の身を以て家計を助ける。その善行は衆人の亀鑑とするに足りる。これより前、同年4月29日、中里町長もまたこれを表彰する。(酒田港誌)
11月20日飽海郡に山形県農民組合がつくられ、組合員一千名を擁し、日本労働大衆党を支持する。
11月23日光丘文庫は御大礼奉祝記念事業として、郷土参考室(郷土博物館)を附設し、常時公衆の観覧に供する。
我が国で図書館へ博物館を附設したのは本文庫を以て最初とする。
11月25日光丘文庫は附属として荘内博物学会を開設する。博物学会は牧野富太郎等をよんで飛島・鳥海山で現地博物講習会を開催するとともに、研究録を4号まで出版し、学問的業績をあげる。梅本八郎・杉原千代太・白旗孝太郎(昆虫)・富沢襄(植物)斎藤清治等の研究者を輩出する。遂年発展して、鶴岡市・西田川・東田川に三支部を置き、事業の拡張を図る。
11月山形無尽株式会社がつくられる。
新堀の太田義之助が解脱金剛会の布教を始める。
農業倉庫建設運動の一環として新堀信用購買販売組合を創立する。(酒田市制50年)
本間家が農民運動対策上から出羽醤油株式会社を設立する。(市史史料篇五)
この頃、井山由太郎が柳小路の現ケルンの所で、「カフェー文化」を始め、洋酒を提供する。女給たちは白いエプロンをかけ、背中の方で、ヒモを蝶結びにしたことから。“夜の蝶”とよばれた。
時雨音羽が来酒する。代表作に「出船の港」「鉾をおさめて」「君恋し」等がある。日和山公園には文学碑があり、この詩は『時雨音羽詩集』に。“酒田港”として残されている。
 酒田みなとに錨を入れて
 長い船路の宿とる船よ
 町の子供にお国を問われ
 国は遠いとよこ向く人よ
 米を積み込む鉢巻すがた
 錨重たや帆綱は澁や
 海の彼方に消えゆく白帆
 港にゃつぎの船が来る