昭和5年(1930)

年号選択
 
元号年月日事項文キーワード
昭和5年19301月7日午前7時30分、下瀬締切工事が終り、最上川の流れは完全に止る。工事関係者は思わず万歳を叫んで喜びあった。いわゆる酒田港の河海分離工事で、これにより最上川から流出する土砂が港へ入るのを防ぎ、港深を保つことを計った根本的改修工事は一応完了した。
1月8日画家小野幸吉が没する。21歳。染屋小路の酒屋小野豊吉の三男。上京苦学して太平洋研究所で絵の修業にはげむ。昭和3年、洋画家林武に師事した。国際美術展、第26回二科展に「花」「ランプ」を出品、入選する。安祥寺に葬られる。「小野幸吉遺作画集」がある。
3月12日雪解水のため港の締切り面が決壊しそうになり、酒田飽海の消防団員1500人を動員し、山居倉庫と米屋の空俵を集めて土のうを作り、古畳まで投げ入れてようやく防ぐ。
3月専売局酒田出張所では塩倉庫600坪の新築工事が落成する。
4月22日日本弘道会副会長文学博士服部宇之吉が主事廣江萬次郎を伴って来港する。公会堂で講演ののち、光丘文庫を参観し、弘法大師著『文鏡秘府論』の寫眞拓本六冊を寄附する。(酒田港誌)
4月平田地区小女房の土田周治の導きで、中之口町の大工加藤伊佐美が生長の家に入信し、初代酒田支部長となり、布教を始める。
5月10日文学博士推尾辨匡が来て、共生会で講演をする。名古屋市建中寺(浄土宗中本山)住職。かつて共生会を創立し、また衆議院議員となる。毎年、善導寺に来り、共生会その他で講演する。(酒田港誌)
5月16日富豪本間幸四郎が没する。57歳。謙吉。船場町の廻船問屋、本間幸四郎の長男として生まれる。町会議員、酒田奉公義会で活躍する。酒田で初めて自動車会社を設立する。大信寺に葬られる。
5月酒田上水道布設工事が竣工する。総工事費75万1千円。上水道工事は助役青塚恒治が衛生上及び消火上から熱心にその必要を主張したもの。(酒田市議会史年表)
5月水道通水試験を浄水場、配水場間で実施する。(酒田市水道50年の歩み)
6月5日郷土史家伊佐早謙が没する。74歳。米沢藩士にして樅軒と号する。史家として聞える。名利に淡く、終生自ら「老書生」を以て任じ、明治42年、米沢図書館の創立に尽し、大正元年、館長に推される。同14年10月、東宮殿下が本県に行啓の際、山形御泊所に召出され、御前で本県維新史(明治元年4月奥羽鎮撫使九篠道孝事蹟)を進講し、翌年内閣より維新史料編纂委員を命じられる。昭和3年御大典に際し社会教育功労者として文部省より表彰される。酒田には前後数回来遊して講演し、史学研究に貢献する。著書多い。中でも『奥羽編年史料』五十三巻は一代の心血を注いだもの。(酒田港誌)
6月6日幕末新徴組唯一の生存者、齢83、千葉彌一郎が公会堂及び光丘文庫で講演する。(上に同じ)
6月8日港湾協会長水野錬太郎が酒田港を視察し、光丘文庫を参観する。(上に同じ)
6月14日上田村の地主島田清作の提案で、地主側による飽海農事協会が組織される。(荘内農民運動史)
6月28日北文堂主催、国民新聞社後援のもとに昼は琢成第二尋常小学校、夜は公会堂で「コドモと家庭の会」が開かれ、童話作家の安倍季雄が講演を行う。
7月3日山形県達によって、初めて方面委員5名を嘱託し、社会事業の調査及びその実行に当たらせる(上に同じ)
7月14日臨時市制調査委員会を設置する。7名。(酒田市議会史年表)
7月15日石井漠一行のバレエ公演が公会堂で催される。
8月1日1日より5日間、鳥海山に於て現地博物講習会を開く。山形県博物学会並びに光丘文庫附属荘内博物学会の協同主催を以て、講師理学博士牧野富太郎、本県師範学校長野上源造、山形高等学校教授安斉徹を聘し、光丘文庫において講演ののち、鳥海山に登り5日間講習する。(酒田港誌)
8月小幡楼の小万がビクターレコードから「酒田おばこ節」、「酒田甚句」のレコード(レコード番号51330)を出す。12月には「本庄追分」、「臼挽唄」(レコード番号51498)を出す。
9月25日酒田商業美術家協会による第1回商業美術展覧会が公会堂で行われ、宣伝美術の幕を開いた。リーダー佐藤十弥。(写真集・酒田)
10月1日国勢調査が行れる。世帯数5,939戸、人口30,280人。(酒田市議会史年表)
10月雑誌「ギャラリー展覧風景」が発刊される。編集者、池田直弥。
10月雑誌「鼎座」が発刊される。編集者、井上長雄。
10月山形の福嶋治助・佐藤利兵衛・小松治郎兵衛が共同で図書1750余冊を光丘文庫に寄付し、「福利舘蔵書」と名づけられる。福嶋は山形市三日町の素封家。衆望を荷って市会議員・県会議員となり、つとに公益慈喜に盡す。(酒田港誌)
11月1日本間自動車商会による酒田駅と鵜渡川原の最上町を結ぶ鵜渡川原線バスが開通する。
11月4日郷土史家、佐藤良次が没する。60歳。明治4年3月25日鶴岡四ツ興屋に生まれ、父に従って酒田に移る。北溟また古夢と号す。多年町会議員を勤続す。友人とはかり、上田秋成の「雨月物語」を刊行して、秋成を世に紹介する。酒田新聞社に入社、主筆として活躍する。大正12年「飽海郡会誌」を著述する。社友は碑を海晏寺に建てる。須田古龍撰並びに書。(上に同じ)
11月11日公会堂で上水道竣工祝賀会が行われ、招待者100名に桐火鉢一対を記念品として贈る。この他、中里町長への功労金1千円を筆頭に助役、町会議員等に予算余剰金の中から祝賀会費をも合わせ3万円を支出する。
11月21日水道工事費剰余金の処理問題に端を発し、約2千人が公会堂で町民大会を開き、池田正之輔が議長となり、竹内丑松・榎本春吉・今野庄太郎等が水道工事の不正を批判追求し、町長・助役の即時辞任、町議会の即時解散、分配金の返納等を決議した。このとき臨検の警官が弁士3名を検束したため、満員の聴衆は激怒し、大会終了後、数百人の町民は3名の釈放を要求して警察署に押しかけ、ついに釈放させる。28日第2回の町民大会を公会堂で開き、3千名以上の町民が集まり場内は熱気に包まれた。大会終了後、数百名の町民が町長・助役宅に押しかけようと行進し、警官隊の阻止にあい乱闘が展開された。町民の中からは町長・助役宅へ投石もおこなわれ30名が検挙された。その後、第3回町民大会が2千名を集めて行われたが、切りくずしにあい、運動は鎮静化した。(山形県史巻五)
12月臨時港湾調査会で酒田港修築費が150万円に決まり、酒田港修築計画を原案通り可決する。
「骨の木」の主催で、岡本文弥の新内演奏会を宇八で開催する。
博報社(新聞販売所)で老新聞配達夫の首切に端を発し、労働争議が起こる。
キリスト教社会事業家、賀川豊彦が初めて来酒し、講演する。その後数回にわたってくる。
大川周明の関係でインドの志士ラス・ビハリ・ボースが酒田に来る。(酒田市制50年)
日本育児院七窪分院長五十嵐喜広が浜中でメロンの栽培に成功する。(山形県地誌)喜広は湯野浜えびす屋の生まれ、新潟の「比越学舘」に学び、内村鑑三や松村介石(道会創立者)の影響を受ける。岐阜市に日本育児院を設立、クリスチャンの社会事業家として活躍する。昭和2年、北米カリフォルニアに遊び、ヨーロッパ系のメロンが紫外線の強い故郷の庄内砂丘に適しているのを感じて、露地メロン栽培を導入する。同6年には七窪メロン研究会を作る。実際には余目生まれの日野三郎太が指導する。浜中の小林助七、黒森の片桐薫が幹事として入会している。現在は、日本一の味といわれている。なお、研究会ではメロンだけでなく、アスパラガス・トマト・洋梨・ブドウの栽培も研究している。