元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
---|
昭和6年 | 1931 | 1月10日 | 盲人教育の功労者、橘周存が没する。68歳。安祥寺に碑がある。周存は雲照寺の次男に生まれ、4歳にして明を失い、成長して医師時岡淳徳に師事すること15年、医学鍼按術を習得し、酒田における盲人教育の不備を嘆じ、家塾を開いて点字の普及を図る。山形県より鍼按術試験委員を命ぜられ、勤続12年に及ぶ。門下相謀り寿碑を安祥寺に建てる。題字は鶴岡高等女学校教論松平末吉の書。光丘文庫では周存と相はかり「飽海郡盲人点字読書会」を発足させた。(酒田港誌) | |
| | 2月11日 | 実小路に酒田健康相談所が落成開所する。(酒田の電報と電話) | |
| | 3月 | 広野村仏照寺より出火し、住居5棟が焼失する。焼死1名。 | 火事 |
| | 4月 | 山形県輸出米検査所を山形県穀物検査所と改称する。 | |
| | 4月 | 日向川改修工事を始める。同10年7月完成。 | |
| | 4月 | 池の坊家元岩田立山が来酒する。(酒田市制50年) | |
| | 5月6日 | 早朝、水路の一部に角材列の一角が発見されたことから城輪の遺跡の発掘調査が春と秋の2回にわたって行われる。その結果、外周には一辺25センチメートル前後の角材が密接して立ち並び、その全形はほぼ正方位による一辺約720メートル方形の規模になること、方形各辺の中央に八脚門を構え、また各四隅に櫓を設けていることが明らかになった。中央部の大畑と称する所からは蓮華文の巴瓦や唐草瓦が出る。阿部正己は「当初は出羽の榾として建設し、のちに国分寺に改めた」とし、喜田貞吉は「出羽国分寺説」を唱えた。これに対し文部省の上田三平は拓地植民の軍事的城塞論、つまり出羽柵説を展開する。 | |
| | 5月13日 | 当時人気の日活の女優入江たか子が来酒し、中央座で2回舞台挨拶を行い、午後11時から相馬屋にて酒田映画観賞会員や新聞記者等50数名出席による歓迎座談会を行う。 | |
| | 5月13日 | 上中町に大谷孫一が本格的洋食店の商興倶楽部を開く。 | |
| | 5月 | 南遊佐村宮内で昭和4年10月28日に殺害された辻占売りの少女を弔うため、宮内の石黒久恵と千代田の斎藤岩江により地蔵尊が建立される。 | |
| | 6月5日 | 理学博士考古学の大家、鳥居龍蔵が城輪柵跡を視察し、光丘文庫を参観する。 | |
| | 6月 | 酒田無尽商会が株式組織となり酒田無尽株式会社となる。 | |
| | 7月 | 飛島で現地博物講習会を開く。 | |
| | | 山形県博物学会並びに光丘文庫附属庄内博物学会主催で飛島に渡り、講習会を開く。講師は理学博士牧野富太郎、山形高等学校教授安斎徹・同廣橋尭。(酒田港誌) | |
| | 7月 | 小松原久治が工学博士の学位を授与される。明治25年、南平田村桜林に生まれる。医師白崎重治の実弟。始め酒田商業補習学校を出、京大応用化学科を卒業した。(上に同じ) | |
| | 8月22日 | 澄宮崇仁親王殿下が見学のため、22日秋田県より新庄を経て、午後3時45分、酒田に御着になり、日和山公園・下日枝神社・光丘文庫・山居倉庫を御覧のうえ本間家別荘に御泊りになる。 | |
| | 8月26日 | 本間家が肴町に協保会社を設立する。(市史史料篇五) | |
| | 10月1日 | 酒田での初めての本格的トーキー映画として「オラングータン」が酒田館で上映されたほか、10月7日からは中央座で「モロッコ」と「幸福の星」が上映される。 | |
| | 10月10日 | 「酒田音頭」(唄四家文子、市丸、広瀬充作詞、堀内敬三作曲)が、ビクターレコード(レコード番号51997)より発売される。 | |
| | 10月 | 東北、北海道冷害による飢饉。この年7月の悪天候と9月の低温寡照、さらに稲熱病が発生して不作となる。庄内地方16,989ヘクタールのうち、3割以上減収が2,000ヘクタールに及ぶ。 | |
| | 10月 | 酒田上水道が完全通水する。(酒田市議会史年表) | |
| | 10月 | 元大連民政署長吉田豊次郎が帰省する。号を東山と称し、元米屋町、橋本喜惣兵衛の二男として生まれる。幼時一家没落して上内匠町吉田某に養われる。苦学して高等文官試験に合格すると、直ちに台湾総督府出仕を命ぜられ、のち旅順大連の民政署長に累進し、満洲の要路に在って肅親王と親交あり、官制改革の際、勇退して東京に帰り弁護士となる。(酒田港誌) | |
| | 10月23日 | 飽海郡耕地整理組合はその目的を達成したので解散し、残務を北水出の有終会が引き継ぐ。同組合の後嗣、財団法人有終会の前庭に記念碑を建設する。梨本宮守正王殿下題字、法学博士筧克彦撰文、松平昭書。 事業成績概要 行啓記念事業明治41年9月18日、大正天皇東宮の御時、本県に行啓。 創立 明治43年1月16日 起工式 明治43年4月 竣工式 大正5年 区域 15力町村に跨る 施行計画面積 8千餘町歩 組合員5099名、戸数約4000 組合長(順位)一、下政恒 二、本間光彌 三、本間光正 副組合長(順位)一、本間光美 二、本間光勇 成績 二十有餘年間に実施した成績、最上川沿岸の原野六百五十七町歩餘を開田し、大町溝掛り下流、古田四百餘町歩に補水する等。投資額、参百九拾七萬八千八拾四円五拾七銭。(酒田港誌) | |
| | 11月3日 | 文部省嘱託上田三平の、城輪柵跡に関する座談会を光丘文庫で開く。 | |
| | 11月7日 | 大川周明の「行地社」庄内支部発会式を港座で行う。(酒田市制50年) | |
| | 12月2日 | 中町の中和会で「市制即時施行を期して全町民と共に進まん」と題するリーフレットを全町民に配布する。酒田商人は酒田港時代から東京・大阪等大都市との取引が多かった。その通信の際、「酒田町」では信用にかかわるとし、「羽後国酒田港」をよく使用した。こうしたことから商人を中心に、市制施行への運動が盛り上がった。(酒田市制50年) | |
| | 12月12日 | 満州派遣軍慰問金募集のため、酒田芸妓置屋一同主催による酒田新町今町芸妓演芸大会が港座で開催される。 | |
| | 12月17日 | 中和会主催の連合協議会を開く。中和会・東酒田会・商栄会・商耕会・商進会・共和会等は市制問題につき、連合協議会を開き、実施運動に着手されたい旨を酒田商工組合連合会に建議することを決議する。 | |
| | 12月24日 | 酒田商工組合連合会の総会において、酒田市制促進に関する件を協議し町当局に対する陳情委員10名を指名決定し、同月27日委員10名は町長に陳情する。 | |
| | 12月27日 | 新両羽橋の架橋工事を始める。工費76万8,848円。(酒田市議会史年表) | |
| | | 上田村に産業組合がつくられる。 | |
| | | チョウカイアザミが正式に学名で発表される。(遊佐町史年表) | |
| | | 定期船飛島丸(27トン)が再建される。(飛島誌) | |
| | | 随筆家渋沢敬三が来遊し、『羽後飛島』を著わす。(酒田市制50年) | |
| | | 漆曽根で農民団体の北栄会が創立される。(県史資料篇二〇) | |
| | | 農民組合幹部の北平田村の6名が、業務上横領等で酒田警察署により検挙される。(県警史年表) | |
| | | 酒田町の職人戸数、指物54戸・漆器23戸・木工品140戸・大工117戸・鍛冶35戸・塗師18戸。(昭和6年酒田町勢一覧) | |
| | | 梅屋幸太郎が上内町の自宅に「酒田拳闘クラブ」のジムをつくる。その以前は公会堂を借りて練習していた。当時30名の会員がいた。 | |
| | | 庄内大凶作。 | |