昭和12年(1937)

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昭和12年19371月1日「東光日日新聞」が発行される。社長は周明の弟大川周三。(酒田市制50年)
1月5日東光日日新聞主催、酒田市役所後援で印度志士A・M・ナイルを迎えて「日支時局講演会」を開く。
1月小中島に山形測候所酒田支所がつくられる。初代所長、相場貞治。
1月酒田港の上屋および鉄興社の大浜工場進出に伴う臨港線の建設工事が始まる。
2月13日公会堂にて大日本国防婦人会酒田支部発会式を挙行する。
2月農村の典型的な研究集団「天狗会」が発足する。天狗会は酒田米穀取引所付属本楯倉庫に事務所を置き、多収技術の研究を行い、それを実際の稲作生産に適用した。その基礎をなしているのは分施稲作法である。(酒田市制50年)
3月新町に酒田港務所が設置される。
3月青麻弘基(海向寺)の「鵝珠」が発刊される。
5月5日伝馬町の稲舟酒造から出火して香梅咲や酒田ホテルを類焼する。この火事は点々と飛火したもので5棟を全焼、3棟が半焼した。(酒田市制50年)火事
5月12日初代酒田市長、中里重吉は5月7日の市会にて再選されるも、高齢を理由に再任を固辞し、5月12日の任期満了をもって市長の職を辞する。
5月株式会社鉄興社大浜工場が工場敷地として大浜の県有埋立地約5万坪を買収して設立される。(13年11月操業)その後、大浜地区には帝国マグネシウム(日新電化)や日本有機(現花王石鹸)がたてられ、大浜工場地帯を形成し、軍需産業の一翼をになった。これにより酒田も工業都市として発展する。
6月作家、長谷川伸と新国劇の樋口十一・松田丑治郎が来酒する。(酒田市制50年)
7月日華事変が拡大し、この年から太平洋戦争の終結まで充員召集と臨時召集が行われる。
7月6日酒田今町郵便局が業務を開始する。
7月6日今町郵便局が今町角交番前に開局し、岡部日枝神社神官による開局式が行われる。東北一モダンな庁舎と報道され、今町新開地方面の住民の利便性が向上する。
7月30日雷をともなった集中豪雨があり、酒田の総雨量は168.4ミリを記録。7時40分から8時40分までの最大一時間雨量は64.2ミリで、観測以来第二位。酒田飽海の水田500ヘクタールが冠水する。水害
8月阿部正己が『荘内人名辞書』を出版する。
9月1日下内匠町の映画館、酒田館が全面改築により酒田劇場となる。
9月12日酒田沖合を通った台風は最大風速23メートルに達し、刈り入り間近の籾を落した。(酒田市制50年)
9月26日酒田商業学校庭球部の渋谷・永田組が、東京の東伏見コートで開催された金門クラブ主催第1回日本中等学校庭球大会で東京府豊島師範学校を4対1で破り優勝する。(酒商八十年史)
9月この頃、山椒小路と山居をつないでいた新井田川の永世橋と逆水門が取り壊される。
10月6日斎藤巳之吉が第二代市長となる。
10月20日鉄興社大浜工場の建設工事が始まる。(鉄興社三十五年史)
10月上市神小公園に「功績追懐碑」がたてられる。酒井忠良題額・本多静六撰・松平穆堂書。
10月鈴木泰助の『青句集』が発刊される。
11月16日酒田高等女学校の体育館の増改築工事落成式を行う。
12月15日南京陥落を市民が提灯行列で祝う。
12月15日鳥海電力の3階建ての新社屋(高橋徳治設計監督)が本町二丁目角に竣工する。
本間光正が県に運河の延長工事を申請し許可される。
小牧排水路の雪害復旧耕地工事がはじまる。(酒田市議会史年表)