元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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昭和13年 | 1938 | 2月20日 | 大工佐藤泰太郎が没する。78歳。佐藤三九郎の長男として生まれ、弁天小路に住んで大工を営む。宇八(山王くらぶ)・宮野浦灯台・相馬屋等著名な建築物を手掛けた。明治維新後の廃仏棄釈によって処分された仏像・仏具類を収集し、台町の自宅に「千仏閣」をたてて安置する。いまは出羽三山博物館にある。大信寺に葬られる。 | |
| | 2月 | 北千日堂前区画整理(昭和13年1月7日事業認可)が始まる。昭和20年頃完成。事業費10万9千円。(酒田市議会史年表) | |
| | 3月12日 | 貴族院議員、吉田茂(のちの総理大臣とは別人)が光丘文庫にくる。 | |
| | 4月1日 | 市役所内に酒田観光協会が設立される。 | |
| | 4月23日 | 市町村自治制発布五十周年記念並びに酒田市制五周年式典を挙行する。 | |
| | 4月24日 | 光丘文庫に酒田文化協会を付設し、月刊「文庫」を発刊する。 | |
| | 4月24日 | 本町五丁目西南角に酒田郵便局庁舎が新築落成する。洋式3階建、工費181,168円、敷地653.33坪、延建坪535.7坪。主な施設、電信用ベルトコンベヤー。8月28日から業務を開始し、9月18日に局舎落成式を行う。 | |
| | 5月6日 | 文部省天然記念物調査員、鏑木政雄が来酒し、天然記念物指定申請中の飛島のうみねこ、御積島雄遠年賀美洞窟、酒田ヤモリ等を調査する。(文庫) | |
| | 5月27日 | 元新庄鉄道建設事務所長の八田嘉明東北振興会社総裁が来酒し、築港等を視察する。 | |
| | 6月 | 「酒田時事新報」が創刊する。(酒田市議会史年表) | |
| | 6月18日 | 酒田音楽院主催の「帝都四星音楽会」として佐藤美子、池田民子、高勇吉、高木東六による音楽会が市公会堂で開催される。 | |
| | 7月28日 | 画人、土屋鷗涯が没する。72歳。正太郎、親秀、庄内藩士土屋伊教の長子として鶴岡新屋敷に生まれる。その後、酒田本立銀行、続いて飽海郡耕地整理組合に勤め、ついで昭和2年から同8年まで酒田の信成合資会社に勤務した。その間正徳寺に下宿する。幼少の頃から絵に長じ軽妙洒脱な鳥羽絵風の絵を描いた。昔話や釣を題材にしたものが多い。山居倉庫の地口行灯にもよく画いた。鶴岡光明寺に葬られる。同49年酒田本間美術館から『鷗涯戯画』が出版された。 | |
| | 7月31日 | 東光日日新聞社主催の第5回夏期大学が開かれ、松井石根大将・八田嘉明(南満州鉄道副総裁)・小汀利得(中外商業新報編集局長)・小野寺長治郎中将が講師として来酒する。(文庫) | |
| | 8月1日 | ~12日 酒田航空研究会が山形県義勇飛行協会、山形県中等学校体育連盟との共催で、宮野浦海岸でグライダー操縦講習会を開く。(文庫) | |
| | 8月14日 | 米田実、北野吉内を講師とする東京朝日新聞社時局講演会が市公会堂で開かれる。(文庫) | |
| | 9月4日 | 来日中のナチスドイツのヒトラーユーゲント一行が午前8時38分着の汽車で酒田駅に着き、発車までの9分間に約350人の市内の青少年が見守る中、武田酒田市助役が歓迎の言葉を述べたほか、酒田中学ラッパ鼓隊の演奏の中、酒田観光協会から獅子頭と観光絵葉書を贈呈する。 | |
| | 9月 | 宮野浦の最上川河川敷にグライダー格納庫を建設し、酒田空港建設を国に働きかける。(荘内雑誌) | |
| | 10月3日 | 昭和12年8月に着工した中の口橋(幅員6メートル、全長28メートル)の架替工事の竣工式を行う。 | |
| | 10月4日 | 船場町に酒田保健所が設立される。 | |
| | 10月 | 広野村中部南部耕地整理組合が設立され、暗渠排水事業を行う。 | |
| | 11月14日 | 本町3丁目(県土木出張所跡)に建設された常備消防部の庁舎と望楼(7月7日着工、9月30日竣工)の竣工式が公会堂で行われる。 | |
| | 11月21日 | 鉄興社大浜工場が操業開始する。(鉄興社三十五年史) | |
| | 12月8日 | 外野町の元琢成第一尋常小学校々舎の一部を利用し、東亜館を設立する。東亜館は将来カラフト・朝鮮・満洲・北支等との交流を考慮し、商業資料及び日用品等を収集して開係市民に知らせ、その進展をはかるものであった。(酒田市議会史年表) | |
| | 12月14日 | 飛島のウミネコ繁殖地(館岩)が国の史跡名勝天然記念物に指定される。 | |
| | 12月 | 山居と上内町を結ぶ木製の新内橋(幅員3メートル、全長42メートル)が架橋される。 | |
| | | 筧舜亮が没する。55歳。福島県信夫郡鳥川村生まれ、のち寺に養子に入る。東京大学印度哲学科卒。大正9年3月県立酒田中学校の開設とともに39才で初代校長となり、仏法精神を基調としたスパルタ教育で、質実剛健の校風を築いた。卒業生にはよく、臨済禅師の「晴所に主となれば立所皆真なり」の言葉をおくったという。生涯独身で、酒を好んだ。 | |
| | | 商工業組合が結成される。 | |
| | | 中等学校生徒による農村への勤労奉仕が始まる。(酒商八十年史) | |