昭和14年(1939)

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昭和14年19391月7日僧侶本多芳寿が没する。53歳。本慶寺住職本多澄雲の子。岡本椿所について篆刻を学ぶ。東京巣鴨に住み、松本幸四郎・尾上梅幸・市川団十郎らの歌舞伎俳優と交友し、その印章を彫る。帰郷して護法団を組織し、説法・盆踊り・舞踊等を通して部落解放運動に力を尽した。「翠峰樓」(丹蔵)の看板と、同寺の山額は代表作。
1月14日酒田宝生会が設立される。幹事本間武次郎、会員32名。師匠は伊藤得三郎。大信寺等で稽古をする。
1月20日書道家山口半峰が没する。彦惣、71歳。山口彦治の長男として明治2年、筑後町に生まれた。長三洲に師事して一家を成す。大正3年8月宮内省に入って貴重文書の浄書に当たる。同9年文部省より選ばれて小学校国定教料書習字手本を書く。著書に『大正三字経』『千字文』『書道要訣』『四体平字文』『甲種固定習字手本』等がある。
4月9日酒田市消防組を解散し、新たに酒田市警防団を組織する。(酒田市議会史年表)
4月鉄興社が日本石英硝子㈱酒田工場を設置する。(鉄興社三十五年史)
4月13日浜田堀切(現酒田南高等学校敷地)にあった東北振興酒田農機株式会社の工場が全焼する。
4月米穀会社案の成立で、酒田米穀取引所が解散し、財団法人「北斗会」を組織する。ベイショ(酒田米穀取引所)に荒木幸太郎は立会人(父幸吉の代理)として米価統制で閉じる日まで毎日通い続ける。
4月泉流寺山門の西側に「三十六人衆之碑」がたてられる。武井群嗣書。
5月1日午後3時ごろ震度4の地震発生。翌日まで有感の余震を12回記録。酒田では明治27年以来の地震となる。震源は男鹿半島沖でマグニチュード7.0。秋田県下で死者27人を出す。
5月21日自治功労者伊藤重治郎が没する。71歳。慶応義塾に学び、郡会議員となり、のち議長となる。さらに県会議員をつとめ、そのかたわら西荒瀬村長となる。耕地整理事業に尽力、名村長といわれる。有恒会の首脳として活躍する。穂積市神に葬られる。
7月17日朝香宮鳩彦王殿下が来酒する。日和山公園・鉄興社酒田大浜工場・光丘文庫を視察、同日御帰りになる。
8月15日県主催の皇軍慰問郷土演芸団一行10名が組織され、北支戦線各地をまわり、郷土出身の将兵を慰問する。酒田からは相馬屋小蝶、松山屋小太郎の2名が参加し、おばこ節・酒田港音頭を披露する。
8月下旬台町出身の東北帝国大学助教授、斎藤信治が渡独記念講演会を光丘文庫で開く。
8月29日山居倉庫と農業倉庫が合体する。(酒田市議会史年表)
9月11日酒田市に区制度を敷く。当時六十区。(上に同じ)
9月11日山形県購販連と山居倉庫(北斗会)及び山居賃貸倉庫の賃借契約がなる。(庄内経済連25年のあゆみ)
9月11日~17日琢成尋常高等小学校を会場として、第10回東北北海道工芸品展覧会が開催される。
9月20日東亜軽金属株式会社酒田工場が発足する。(帝国マグネシウムの前身)(酒田市議会史年表)
9月佐藤四郎の句集『鳶』が刊行される。
10月最上川改修工事により新堀村大字落野目の一部が移転する。
10月~11月酒田で闇米の一斉取締りを実施し検挙者を出す。(県警史年表)
11月27日本楯大物忌神社所蔵の太刀が盗難にあう。のちに発見される。(県警史年表)
11月指物師土田竜八が没する。70歳。越後に生まれ、11歳のとき指物師須田弥吉郎の徒弟となる。明治23年21歳のとき酒田に移住して、地元の各種工芸技術を見習い、済世学校で徒弟養成の指導員をつとめ、厚掛漆器の製法を指導した。琢成尋常高等小学校の手工科担当嘱託をつとめる。
12月15日酒田劇場が東宝直営の東宝酒田劇場となる。(文庫)
鉄興社製品の晒粉が酒田港から初めて輸出される。
県の注意もあり高砂海岸に防空監視哨を設置する。(酒田市議会史年表)
飛島では北海道イカ釣出漁者が200人を超える。(飛島誌)
この年民芸の先覚者、柳宗悦が船箪笥の調査に来酒する。曲物師田畑久作を知る。(酒田市制50年)
この頃、大正初めからあった柳小路の美人餅屋(小川小太郎経営)がカクテルバーに改業する。
この年大豊作。