昭和15年(1940)

年号選択
 
元号年月日事項文キーワード
昭和15年19401月22日冬型の気圧配置に放射冷却も加わって、酒田測候所開設以来の最低気温零下16.9度を観測。水道管破裂が続発する。
1月雑誌『鳥海』が発刊される。編集者、池内栄治。
2月2日積雪が1メートルを超え、十数年来の大雪となる。このため多数の埋没家屋が発生、警防団員らが掘出し作業を実施する。
3月17日実業家大谷孫七が没する。70歳。恒治、先祖は徳念寺の住職に従って酒田に来住、船場町で船宿を営み財をなした。孫七は小麦粉・砂糖・酒等を商い、大正6年以降、町会・市会議員・商工会議所議員を歴任する。浄福寺に葬られる。先代孫七は酒田水陸運輸(株)を興して汽船を建造し、陸羽西線の開通まで最上川の清川から本合海までの区間を就航させる。
3月東埠頭(1千トン岩壁)が竣工する。
4月10日酒田市立酒田実科高等女学校(市立中央高等学校の前身)が琢成尋常高等小学校内に創立する。初代校長、今野喜平治。
4月私立鉄興社青年学校が発足する。(酒田市制50年)
4月鈴木泰助の詩集『詩のデッサン』が刊行される。
4月30日鉄興社と長瀬商会の共同出資により、日本有機(株)(のちの花王石鹸株式会社酒田工場)が大浜へ設立される。
5月6日酒田音楽院主催で声楽家、藤原義江の独唱会を開催する。(文庫)
5月7日芸能勉強会を作り、酒田芸能界の発展に功労のあった大谷孫一が没する。47歳。孫一の長男栄一は勝新太郎の専属スチールカメラマンとなった。
6月25日外野町の旧琢成第一尋常小学校跡地に、大川周明のあっせんにより、酒田日満技術工養成所が設立される。翌年、西荒瀬村豊里に移転する。初代校長、紅露五郎。日満技術工養成所は満洲国産業技術者を養成するための学校で、日満鉱工技術協会の隅部工学博士が中心となり、候補地を探していたもの。13年には秋田に技術工養成所、それ以前、福岡県直方市に鉱工技術員養成所、京都に立命館日満高等工科学校が設立されていた。酒田の第一期生は120人、うち13人は満洲人。3年制の全寮制であった。翌年、本間家から豊里の敷地をかりて2階建4棟の校舎をたてて移転する。李紹庚駐日満洲国大使も出席して盛大な竣功式を行う。19年日満工業学校と改称する。20年終戦によって廃止される。経費は満洲国の出資でまかなわれる。(酒田市制50年)
6月大政翼賛会の下部組織として隣組がつくられる。
8月酒中卒で世界連邦建設の思想家日高一輝が鳥海スピリットによって中等学校生徒の精神を鼓吹する目的から鳥海山麓に「鳥海道場」をつくる。
9月3日庄内地方で防空訓練を実施する。(県警史年表)
9月22日酒田で初めて大歌舞伎松本幸四郎一座が港座で公演する。
9月税制改革施行(特別税戸数割廃止、市民税の創設)。この年まで、本間家では毎年市税の3分の1を無条件で負担していた。(酒田市議会史年表)
10月県内のダンスホールが一斉閉鎖される。(生きた証しに)
11月10日紀元二六〇〇年祝賀行事が全国的に行われ、酒田でも日和山公園で雨天の中、記念式典が催されたほか、記念奉祝音楽会が酒田音楽院齊藤直蔵の主催で公会堂で催される。
11月22日相場師宮本辰弥が没する。82歳。医師太仲の子として生まれ、本町五ノ丁で米穀取引業を営む。山椒小路に精米所を設ける。相場師として活躍し、毎年、秋、鵜渡川原の老人を招待する。「蔦湯」を会場に朝風呂会を開く。宮本家の祖は天才的相場師本間宗久で、宗久の資金で再興され、代々医を業としていた。
12月12日大政翼賛会事務局が公会堂内におかれる。(酒田市議会史年表)
12月16日浄福寺庫裏一棟が焼ける。このとき住職の菊池秀言所蔵の蔵書も焼く。
12月20日新体制により町内会制度がしかれる。54町内会。(上に同じ)
この頃酒田の斎藤正雄が稲の新品種「大宮錦」をつくる。
世帯数6,555、人口31,958人。