元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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昭和16年 | 1941 | 1月 | 両羽無尽株式会社が設立される。 | |
| | 2月10日 | 生活新体制実践要綱が伝達される。(松山町史年表) | |
| | 2月 | 最上川駅を酒田港駅と改める。 | |
| | 3月1日 | 米の配給を実施する。(松山町史年表) | |
| | 3月8日 | 愛国婦人会創立40周年記念式を挙行する。(余目町報第十六号) | |
| | 3月 | 農事功労者佐藤源五郎が没する。68歳。染物屋先代佐藤源五郎の長男として新米屋町に生まれ、西野町に移って家業の傍ら農業に従事し「稲作多収穫作付け法」を考案した。 | |
| | 4月1日 | 西平田村と中平田・西荒瀬村の一部が酒田に合併する。 | |
| | 4月1日 | 国民学校令施行により、小学校をそれぞれ国民学校とする。(当時酒田は第六まで) | |
| | 4月12日 | 両羽朝日新聞・東光日々新聞・酒田新聞が合併し、「酒田毎日新聞」が創刊される。 | |
| | 4月 | 前田製管酒田工場が建設される。 | |
| | 5月6日 | 山形新聞社製作による軍献納記録映画「銃後の山形県」の市内撮影が行われ、日満技術工養成所寄宿舎、日和山公園、本間農場などで撮影が行われる。 | |
| | 5月9日 | 日向村升田の全122世帯のうち83世帯、250棟が焼失、死亡1名、負傷者6名を出す大火となる。 | 火事 |
| | 5月22日 | 県商工課の金属回収により、市役所の鉄扉、鉄柵取外し、回収量は合計20トンに上る。 | |
| | | 東亜連盟庄内支部発会式。 | |
| | 7月1日 | ~3日にかけての豪雨は日向川・月光川流域で140~160ミリに達した。(酒田市制50年) | 水害 |
| | 7月17日 | 作家の加藤武雄・子母沢寛・高見順の三人が来酒し、光丘文庫を訪れる。(酒田市制50年) | |
| | 7月25日 | 8月28日まで日和山公園を会場に「酒田興亜国防博覧会」が開かれる。陸軍海軍両館では戦車、戦闘機などが展示され、不思議館(おばけ屋敷)、スリル館(オートバイ曲芸)などの娯楽施設も設置された。同時に7月18日から8月21日まで第二会場の山居広場では国防科学博覧会が開催され、国防兵機科学館の他日光館では日光東照宮の縮小模型が出品された。 | |
| | 7月26日 | 佐藤良次の四男、佐藤三郎の弟で多彩な芸術活動を行っていた佐藤四郎が30歳で亡くなる。明治44年生まれ、国学院大学を卒業後、国民新聞社に勤め、病により帰郷、酒田で報知新聞、河北新報の通信員として勤める傍ら、文筆活動を行う。 | |
| | 9月18日 | 主に歌舞伎などの公演会場であった港座が東宝の常設映画館となる。 | |
| | 9月 | 斎藤己之吉市長が再選される。(酒田市議会史年表) | |
| | 9月 | 『論語の思想』が発刊される。著者、渡部信治郎。 | |
| | 10月19日 | 上田秋成の調査を目的として井伏鱒二と小田嶽夫が来酒し、光丘文庫を訪れる。 | |
| | 11月3日 | 酒田商業学校敷地に隣接する湿地2,228坪を同校グラウンド用地として買収する。 | |
| | 11月7日 | 酒田文化協会が月刊「文庫」終刊号(第41号)を発行し、同会を解散する。 | |
| | 11月19日 | 下の山の眼科医、佐藤清治が光丘文庫に支那鳳凰耳付青磁花瓶、支那木造朱子聖像他、合計34点を寄付する。 | |
| | 11月25日 | 酒田市物産陳列館が外野町の日満技術工養成所跡(東亜館)に移転する。 | |
| | | 新堀村に小作争議が頻発し、適正小作料をきめる。 | |
| | | 米穀・砂糖・塩・清酒・醤油・乳製品・木炭・豆炭・製綿・綿糸・綿布・建築資材・タイヤ等の物資が統制される。(酒田市議会史年表) | |
| | | この年から国民学校では「郷土の観察」が重視される。戦後の新学制では、社会科として三、四年の教育内容として学習される。(酒田市制50年) | |