昭和18年(1943)

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昭和18年19431月15日農政家本間光勇が没する。70歳。本間光訓(本間家六代光美の次弟で数右衛門と称する)の長男として谷地田村で生まれ、庸行家塾において池田賚(悌三郎)より漢籍を学ぶ。本間宗家の農政担当者となって農事一般、農業改良等に力を尽す。小作争議に対処するため大正13年飽海郡共栄組合をつくり、小作料の適正化をはかって全国の模範となる。第二の伊佐治八郎、農聖といわれた。浄福寺に葬られる。谷地田稲荷神社に碑がある。
1月16日酒田農業者国民貯蓄組合が結成される。(酒田市議会史年表)
2月1日酒田市電気部・飽海電灯所・鳥海電力株式会社が、東北配電株式会社に合併し、本町二丁目角に東北配電株式会社酒田営業所が設立される。
2月26日酒田商業学校名称変更並びに造船科設置の件、名称酒田実業学校(造船科を設置)。実現をみないで終る。(上に同じ)
3月31日酒田市物産陳列館及び酒田市東亜館が廃止される。(酒田市議会史年表)
4月10日市立酒田実科高等女学校が琢成高等女学校に改称する。
4月帝国マグネシウム(のち日新電化)株式会社酒田工場が設立される。(上に同じ)
4月山形県木船工補導所(現、県立庄内木工指導所)が設立される。
4月10日水神社祭が行われる。奈良県吉野郡川上村丹生川上神社より分神。(酒田市水道50年の歩み)
5月企業整備が行われ、残存店舗は配給所となり、転廃業者は生産部門にてい身する。
6月14日北白川宮大妃殿下が来酒し、酒田市連合農業倉庫・酒田港・酒田高等女学校を視察、同日秋田県に向う。
6月22日石原莞爾が光丘文庫を訪れる。
6月新堀村農業会がつくられる。会長、山木武夫。
6月小中島に半官半民の国策会社山形造船株式会社が設立される。社長は新田(加茂出身)海軍技術少将。敷地1万1,000坪、従業員数1,400人。250トン大型一番船を起工進水している。同社は附近10万坪以上を埋立整備し、現在の入船町や山居町発展のみなもとを作った。
6月正則酒田詩吟同好会が発足する。のち正則九重流詩吟学会酒田支部となる。
6月酒田裁縫女学校が酒田家政女学校と改称する。
6月下旬~8月上旬干魃。太平洋高気圧が著しく張り出した反面、オホーツク海の高気圧が弱まり、空梅雨となる。6月28日から8月11日までの45日間無降水で、酒田測候所開所以来初めての記録となる。
7月3日山田玄太郎(鳥取高農校長、北海道大学教授、農学博士)が札幌市で没する。71歳。北大の出身、昭和11年退官まで農業教育に盡すこと44年。植物病理学の大家であった。本町の廻船問屋加賀屋(山田)太右衛門家の出身。
7月飛島に警備隊がおかれ、本土防衛の前哨基地となる。翌年海軍通信分駐隊が駐留する。
9月大川周明と石原莞爾は憲兵の目をのがれて鶴岡の喜久知亭で時局収拾について5時間にわたり会談する。(酒田市制50年)
9月「商都我が酒田之変遷」が発刊される。著者荒木幸吉
10月1日昭和17年8月に出された国のバス事業統合方針により、庄内電鉄ほか2社と酒田の酒田乗合自動車、本間自動車商会が事業譲渡したことにより創業した庄内交通が吹浦・高瀬・遊佐・酒田間のバス運行を開始する。
11月2日海軍少将荘司喜一郎が戦死する。50歳。荘司梅吉の長男として利右衛門小路に出生する。太平洋戦争が始まると駆逐隊司令となり、「初雪」に坐乗してバリ島沖海戦で功を立てた。18年水雷戦隊旗艦「川内」艦長となりブーゲンビル沖海戦に参加して戦死する。泉流寺に葬られる。
12月25日酒田市国民健康保険組合の設立が認可され、翌年4月1日から事業を開始する。
12月池田藤八郎の銅像が金属供出される。
山形県農業会が発足する。
社団法人日本美術工芸統制協会から曲物師田畑久作と家具木工西村政五郎が特別指定をうける。
勤労修錬道場がつくられる。
新井田橋修繕工事が始まる。(酒田市議会史年表)
酒田築港同盟会と酒田観光協会が解散する。(上に同じ)
盗まれた新田目大物忌神社所蔵の太刀が浜畑で発見される。(県警史年表)
この頃、上野国立美術研究所(現国立文化財研究所)所有の文化財が本間順治の紹介で本間家の土蔵に疎開する。職員2、3名もついてくる。昭和21年頃引き上げる。
この頃物資が欠乏し、町には「欲しがりません勝つまでは」の標語が張られる。
この頃予科練に酒中や酒商の生徒が応募し、合格者は第一国民学校体育館での壮行会で励まされ、勇躍入隊する。
各学校では食糧増産のため校庭内を開墾し増産畑とする。家庭菜園が盛んになる。