昭和19年(1944)

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昭和19年19442月3日明治天皇行在所記念塔の鳳凰が金属供出される。
2月25日決戦非常措置要綱の閣議決定がなされたことにより、高級料理店とみなされた小幡、玉勘、相馬屋が営業を停止する。宇八と相馬屋は帝国マグネシウムの社員寮、玉勘は船舶運営会酒田駐在所となる。
3月1日国民勤労動員署が内匠町に設置される。(酒田市議会史年表)
3月南と北の防波堤が竣工する。
4月1日船舶運営会酒田駐在事務所が下小路玉勘に開所する。(酒田市議会史年表)
4月1日酒田市役所に厚生課を新設する。(上に同じ)
4月1日酒田工業学校(市立)が開校され、酒田商業学校は生徒募集が一時停止となる。
4月1日亀ケ崎青年学校と西平田青年学校を琢成小学校に統合、酒田市青年学校と改称し、第三国民学校々地に新校舎を建設する。(上に同じ)
4月東酒田信号所が設置される。
6月1日朝香宮鳩彦王殿下が来酒する。帝国石油・山形造船酒田工場を視察し本間家別荘に泊まられる。
6月26日隣組組織を通して募金した軍用機(陸軍)「酒田号」の献納式が琢成小学校(当時第一国民学校)体育館で行われる。別に海軍機一機も献納する。
6月塩釜海運局酒田支局が設置される。(現、東北海運局酒田支局)
7月20日最上川大洪水のため上流堤防が決壊し、新堀村等が水害をうける。水害
8月14日10月17日の2回で、東京都城東区砂町国民学校集団疎開児童生徒174名を市内の旅館及び第一・第三国民学校で受け入れる。(酒田市議会史年表)
8月15日酒田出身の数学者小倉金之助が正伝寺に疎開する。20年7月にはさらに黒森の農家に移る。
10月3日オーストラリア陸軍のローリー・リチャーズ軍医(Rowley Richards 1916-2015)、イギリス陸軍のジム・ラウルストン軍医(Jim Roulston 1915-2003)を含む英軍、豪州軍、米軍及びオランダ軍の捕虜312名(うち18名が酒田で病死)が酒田に連行され、根上小路の倉庫を改造した仙台俘虜収容所第9分所に収容され、日本通運等で労役に従事する。酒田での捕虜生活についてはリチャーズ軍医の著書"The Survival Factor"と"A Doctor's War"に詳述されているほか、同氏は昭和34年と平成23年に酒田を訪れている。
10月14日僧侶菊池秀言が没する。90歳。北村山郡東根礼徳寺住職遠藤示弁の長子として生まれる。24才のとき浄福寺に養子に入る。酒田仏教界を指導し、詩書および和歌に長ずる。のちに首相となった清浦圭吾の漢詩の指導をする・東本願寺役僧となる。大日本弘道会酒田支部長、酒田報恩会会長として社会事業に尽瘁した。浄福寺に葬られる。
11月酒田市生活物資確保協力会が設置される。(酒田市議会史年表)
12月18日中国河北省出身者を中心とする200人の中国人労働者が下関経由で酒田に到着し、終戦まで酒田港で労働に従事する。その後、翌年5月1日に100名、同月29日に38名が連行されて港湾労働に従事したが、酒田において31名が病気、空襲、逃亡中の事故等により死亡している。
12月本町に荘内証券株式会社が設立される。
12月末における疎開学童の受入件数は529件、人員1431人。(酒田市議会史年表)
酒田港に岩壁機械化第一号として石炭つかみつき陸揚機(クレーン)が設置される。
湯野浜、浜中間の県道が完工する。
この頃公共用防空壕を400もつくる。各家でも屋敷内に防空壕をつくる。
この頃各家の前には下内町の田中箱屋製作の砂箱に砂をもって何個も重ねておく。また防火用はたき(いざというとき、水で濡らして、火をたたいて防ぐ)を備え付ける。
防空演習や灯火管制がしきりに行われる。
救護病院・救護所・助産救護所を開設し、防空体制の整備にあたる。(酒田市議会史年表)
本間家本宅に揚塔司令部と船舶運営会酒田駐在所がおかれる。
当時、酒田は軍需工場地帯、日本海の主要港、糧秣保管地区、輸送基地として戦争遂行に重要な役割を果たしていたため、暁(第6168)部隊(隊長、安田少佐)を主力に陸海の諸部隊機関が任務に当たっていた。暁部隊は本部を本間邸におき、浜田小学校その他に駐在し、主に港湾で荷揚作業を行っていた。安田隊長は本間家に宿泊する。
本間家は軍用機3機を単独で献納する。また、同家所有の金ののべ棒すべてを国に献納する。
取水井(上水道)の増設工事が竣工する。(上に同じ)
商工会議所内に憲兵隊本部が設けられる。
清元梅丸(のち益寿郎)が疎開できて清元を教える。