昭和20年(1945)

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昭和20年19451月26日山居にある山形造船の3棟が焼失する。火事
2月15日彫刻家小松弥六がフィリピンで戦死する。36歳。小松安吉の三男として飽海郡日向村草津に生まれる。彫刻家高橋為吉に師事、長じて日本美術学校に入り同校の助教授となる。光丘文庫第二閲覧室に昭和9年作の「踊子の像」が飾られている。
2月19日政治家熊谷直太が没する。80歳。東京大学を卒業、判事となり退官して弁護士となる。大正元年から昭和17年にいたるまで9回にわたって衆議院議員に選ばれる。海向寺に碑がある。著書『法律汎論』『国際法』等がある。
2月今町の表具師久村清斎が没する。83歳。聴琴堂と称し、東北一の名人といわれる。元帝人会長、久村清太の父。絵をよくした。
3月17日漢学者、須田古龍が没する。80歳。文太郎、子化、皎々仙史。本町の漢方医須田文栄の次男として生まれた。酒田中学を出て上京し、佐賀の人佐田白茅から指導をうけた。帰郷後、学聚館という塾を開き、詩文の添削、経書の講義をする。また袖浦吟社、淇澳吟社等の詩会を起して盟主となり、後進を指導する。弟子に佐藤北溟(良次)・藤井蒼龍・荘司吟龍・小山松勝一郎等がいる。清河八郎の事蹟調査に心血を注ぎ、生涯清貧に甘んじ、今町報恩会の長屋におる。海晏寺に葬られる。古龍の著書や詩文集はすべて寄贈されて光丘文庫に保管されている。著書『清河正明博』『酒田聞人録』『論語大義』『孝経要義』『墨相』その他。
3月22日戸籍兵事課を兵事学務課と改称、防衛課(課長本間光太)を新設する。(酒田市議会史年表)
3月31日大地主本間光正が没する。45歳。富豪本間家の九代目当主。先代光弥の長男。陸軍騎兵中尉。船場町に馬場を造成して乗馬を普及させた。太平洋戦争に際しては多大の献納をする。戦後農地解放があれば率先して協力することを遺言する。浄福寺に葬られる。
4月24日重要軍需工場の地方疎開に協力するため市立工業学校校舎の一部を東京都蒲田区藤波航空兵器株式会社、責任者藤波省三に貸付する。
4月本楯村大物忌神社社務所に東北第3399部隊が駐在する。
5月10日酒田市に疎開中の東京砂川国民学校生徒慰問用として、各戸にくだけあられ一合と、かた餅三枚宛を割当る。(上郷村通牒)
5月25日午前9時半、敵機山形辺迄侵入し、警報が鳴る。(佐東日記、余目町史年表)
6月2日機関車の飛火で、高田新田の三上神社と住宅4戸焼失し、同じく6日住宅4戸を焼失する。火事
6月25日警戒警報が鳴る。敵機は吹浦方面へ去る。(余目町史年表)
6月30日午前零時半、米軍B29、7~10機が飛島付近を旋回反転し、酒田港一帯に93箇(運輸省調査)の機雷及び照明弾を投下する。(山形県警察史には、海中落下40個、陸に落下14個、自爆1個、合計55個とある)
6月仙台の独立高射砲第48大隊より分派された第1中隊(144名)と第4中隊はそれぞれ光ケ丘と宮野浦に官民の協力を得て高射砲陣地を構築する。第一中隊長真田慶久大尉。宿舎は第1中隊は高等女学校、第4中隊は宮野浦小学校。
7月1日重要施設防護疎開のため、船場町73棟、利右衛門小路8棟、酒井新田(駅前)49棟、浜田63棟、新町51棟の解体を始める。
7月7日農民運動家庄司柳蔵が没する。59歳。大正13年小島小一郎とともに浜田・漆曽根の両組合をはじめ、27の耕作組合に呼びかけて飽海郡連合耕作人組合を結成し推されて組合長となる。小作農民運動に従事したが、のちには小島とわかれ、地主と小作人との協調をはかる。
7月下旬から9月初旬までの干天炎暑を除き平均気温が19.6度で、酒田測候所開所以来の低温となり、一般に低温寡照、多雨になる。戦争による労働力不足や肥料不足も加わって2割減収の凶作となる。
7月17日~18日建物疎開のため市公会堂を解体する。
8月6日運輸省の港湾浚渫船阿賀丸(529.87トン)が酒田港北突堤外で浚渫作業中、機雷に触れて爆沈する。このため行方不明2、重傷3、軽傷6の被害者を出した。
8月10日光ケ丘の高射砲陣地6門が完成し、この日午前10時を期して試験射撃を市民に公開することとなり、市民は続々とつめかけていた。ところが突如、警報発令、続いて空襲警報発令となり、実戦となる。しかしこの高射砲は最高射高1万メートル、B29の大高度を目標にしたものなので、小型機に対しては不向きであった。午前9時18分ごろから午前12時5分まで約3時間にわたって空襲される。1回目は艦載機グラマンF6F16機、2回目は同型機11機、計27機により空襲をうけて57キロ爆弾33個の投下と銃爆撃を加えられる。死亡16名・行方不明14名・重傷18名を出す。主に港湾施設・工場地帯・第一国民学校が攻撃される。建物等の損壊または焼失、酒田駅裏上林製作所・第一国民学校(旧琢成小学校、現総合文化センター)・鉄興社大浜工場第三工場・山形造船・船場町商業合資会社南亜企業倉庫・四ケ浦漁業組合事務所・内務省酒田港工事事務所・両羽橋欄干、船舶被災は正吉丸(970トン)、南輝丸(700トン)、以上2隻はいずれも火災発生後沈没。光ケ丘の高射砲陣地による応戦の結果、敵機2、3機を撃破する。酒田停泊中の第四十号海防艦(艦長青木海軍少佐)は吹浦沖で敵機と交戦し、炎上沈没した。
8月14日夜11時過ぎ、B29が海岸上空を爆音をとどろかせながら北進する。
8月15日正午、酒田市民はラジオの玉音放送で、敗戦を知る。この日午後石原莞爾は黒森農業会を会場にして、「敗戦の日に東亜連盟会員に訴う」のもとに獅子吼する。冒頭に「敗戦の最大原因は国民道義の驚くべき低下にあり」と喝破している。この講演を当時、黒森に疎開していた小倉金之助も隅の方で静かに聞いていたという。なお、石原の最終戦争論は、戦争そのものの進化の結果、巨大破壊兵器の出現等により、戦争が不可能になり、戦争の意味がなくなる。つまり戦争の自己否定によって、なくなるという、軍事学的研究に基づくもので、科学的な「最終戦争論」や永久平和論を唱えたのは、世界で石原が初めてという。(最終戦争論)
8月26日画家岡部敏也が満州興安省五叉溝において戦死する。26歳。元米屋町岡部藤治の長男。酒商から東京美術学校日本画科卒。昭和18年第6回文展に入選する。正徳寺に墓がある。
8月28日染屋小路の捕虜収容所に収容されていた連合軍捕虜のために米軍のB17による物資を搭載したドラム缶が低空からの投下により死亡者1人、けが3人のほか、家屋や山形内燃機㈱の工場等を破損する。
9月修身・国史・地理の授業停止。
9月12日日本通運等の労働に従事していた連合国軍捕虜が仙台に向けて酒田を離れる。
9月小幡の洋館二階に、酒田検番及び井山武雄らが進駐軍接待用の社交ダンスホールをつくる。この頃から社交ダンスが市民の間にも流行する。
10月1日人口調査、世帯数8,902戸・人口44,608人・男20,564人・女24,044人。
10月5日日本海員組合が組織され、中村亀太郎が酒田支部長となる。
10月9日米第11空挺師団第472グライダー野砲大隊B中隊のクラーク・ヘザリントン中尉(William Clark Hetherington 1921-2012)を隊長とする120数名の兵士が酒田に進駐し、山形造船所跡に駐留する。
10月22日俳人竹内猪一郎が没する。47歳。唯一郎。浜町で活版業を営むかたわら、句作と俳諧史の研究に没頭した。『唯一郎句集』が刊行された。浄福寺に葬られる。
10月29日元中国人労務者が大浜で網にかかった一匹の魚をつかんだことから争いとなり、漁民数名が身体を縄で石にしばりつけ、沖から海中に沈める。死体が後日、浮かび上って裁判が台町裁判所で行われる。これは戦後の異状を象徴するショッキングな事件であった。
10月斎藤已之吉市長が戦争の責任をとって辞職し、青塚恒治が第3代市長となる。
10月本間元也が第3代市議会議長となる。
10月新町光ケ丘に東京タングステン株式会社酒田工場が設置される。
11月新町光ヶ丘に東北電機鉄工株式会社が設置される。
11月30日「酒田タイムス」が創刊される。(酒田市議会史年表)
12月25日極東通のジャーナリストとして知られるマーク・ゲイン(Mark Gayn)が本間家を訪れ農地解放等について取材する。のち筑摩書房より『二ッポン日記』が発刊され、ベストセラーになる。
12月28日進駐軍の守備隊指揮官ロバート・マクハーディ中尉とマーク・ゲインが武装したGIの運転するジープに乗って本間家の信成合資会社にくる。本間家は連合国軍の指令に違反して莫大な金塊や証券類を土蔵に隠匿しているとの、ある政治家の情報により、強制捜査にきたもの。本間家では本間祐介・本間元也・本間信吉の三人が対応する。結局、何も出なかった。
大政翼賛会酒田支部事務局が解散する。(酒田市議会史年表)
元中国人労務者が市内を濶歩し、市民は不安にかられる。(上に同じ)
本間家では農地改革のときは約1,750町歩であったが、本間農場(約4町歩)を残し、すべて買収された。山林は約500町歩、雑地約200町歩、宅地1万坪を所有していた。この農地解放により、全国で総農家戸数のうち自作農家戸数79.8%・自・小作農家戸数16.3%・小作農家戸数1.5%となり、かつて自作農家は10%も占めていなかったものが、約80%が自作農家となった。農地改革完了時点で2町歩以上を耕作する農家戸数は総農家のうち50.6%を占め、半数以上の農家が2町歩以上となった。(酒田市制50年)
この年から中村亀太郎がパイロット(水先案内)を始める。
草月流家元勅使河原蒼風の直弟子土門桂春が疎開で酒田にきて、草月流を伝える。