元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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昭和21年 | 1946 | 1月5日 | 地方自治功労者中村弘が没する。81歳。町年寄中村与惣右衛門の次男として鶴岡十日町に生まれる。酒田寺町に移り池田藤八郎の知遇を得て酒田新聞社に勤務する。大正5年7月より同11年11月まで町長に在任。その間、県会議員も兼ねる。また町会・市会議員をつとめ、初代市会議長となる。有恒会幹部として政界で活躍する。天正寺に葬られ、同寺に碑がある。 | |
| | 1月 | 酒田産業振興会および港湾維持連盟がつくられる。 | 港 |
| | 2月24日 | 酒田商業学校生徒募集を再開する(昭和18年11月17日 教育に関する戦時非常措置により酒田商業学校は工業学校に転換。昭和20年度限り廃止したが昭和21年度より生徒募集を再開始するもの)。(酒田市議会史年表) | |
| | 2月 | 帝国マグネシウム株式会社を日新電化株式会社と改称する。(上に同じ) | |
| | | 庄内民主連盟結党 | |
| | 3月 | 山形県庄内地区労働組合協議会がつくられる。 | |
| | 3月 | 日本共産党酒田地区委員会がつくられる。責任者、竹内丑松。 | |
| | 3月15日 | 郷土史家阿部正己が没する。68歳。阿部拓弥の長男として松嶺に生まれる。酒田町史編纂主務者となる。考古学より幕末史にいたるまで未開の分野を広範囲にわたって開拓、郷土史研究で先駈的業績を残した。松嶺総光寺に葬られる。著書『山形県金石文集』『荘内人名辞書』『伊藤鳳山』『川俣茂七郎』『羽黒山鏡ケ池の古鏡』『荘内藩幕末勤王秘史』『荘内藩蝦夷領地経営』「酒田市史稿」その他多数。 | |
| | 4月 | 各学校一斉に御真影を奉還する。 | |
| | 4月 | 戦時中は鉄興社の独身寮として利用されていた旧割烹宇八の建物が、新たに山王クラブとして営業を開始する。 | |
| | 4月1日 | 酒田市警防団組織を改組し、従来の防空関係業務部を廃し消防一本となる。(酒田市議会史年表) | |
| | 4月25日 | 酒田消費組合が設立される。(上に同じ) | |
| | 4月 | 酒田市体育協会がつくられる。 | |
| | 4月 | 小幡ダンスホール跡に酒田ギャラリーを開設する。(上に同じ) | |
| | 4月 | 酒田商業学校は、商・工併置学校となる。 | |
| | 5月1日 | 酒田で初めてメーデーが行われる。 | |
| | 6月 | 新潟税関支署酒田監視署が開署される。 | |
| | 6月10日 | 庄内最上地方に集中豪雨による被害が出る。 | 水害 |
| | 6月15日 | 川柳家荒木彦太郎が没する。57歳。京之助、彦助。京都大学卒。光丘文庫初代理事長。著書に『京之助句集』『最上川清譜』がある。妙法寺に葬られる。 | |
| | 6月24日 | ~25日豪雨により酒田飽海地方の水田や畑2,480ヘクタールが冠水あるいは浸水する。 | 水害 |
| | 6月 | 加藤千晴の『観音』(詩集)が刊行される。 | |
| | 7月 | 山形県建築木工補導所が酒田木工補導所となる。 | |
| | 7月 | 酒田商工会議所が酒田産業振興展を開催する。 | |
| | 7月 | 飽海労政事務所がおかれる。 | |
| | 7月 | 「酒田自治クラブ」が結成される。(酒田市議会史年表) | |
| | 7月 | 雑誌「鳥海文学」が発刊される。編集者、長崎寛。 | |
| | 7月31日 | 連合国軍最高司令部の天然資源局農政課長代理ウォルフ・ラデジンスキー(Wolf Ladejinsky 1899-1975)が文部省国宝調査官倉田文作と来酒し、本間家を訪れ、日本の農業・農地改革等について本間祐介・本間久治等の意見をきく。 | |
| | 8月12日 | 酒田市役所社会課内の衛生係を分離し、新たに衛生課を設置する。(進駐軍の要望による) | |
| | | 当時、日本脳炎・赤痢・発疹チフス等の伝染病が多発していた。(酒田市議会史年表) | |
| | 8月 | 酒田市で衛生班(鼠族昆虫駆除班)を組織し、全市にわたって蚊・蠅駆除の薬剤撒布を行う。のちには1班6名で、3班編成され、各班の班長を補助衛生監視員といい、保健所の指導を受けた。 | |
| | 8月18日 | 酒田市食糧危機突破市民大会が琢成小学校で開催される。戦時からの食料危機が続き、市民はヤミ米等の買出に追われていた。(松山町史年表) | |
| | 9月1日 | 「自由勤労者組合」が結成される。(酒田市議会史年表) | |
| | 9月 | 酒田市選挙管理委員会がおかれる。委員長、弁護士蛸井文蔵。 | |
| | 9月21日 | 酒田商工会議所が復活する。(右に同し) | |
| | 9月28日 | 元市長中里重吉が没する。82歳。中里重威の長男として鶴岡天王前に生まれる。視学から東田川・飽海郡長となり、大正12年酒田町長、ついで初代市長となる。鶴岡総穏寺に葬られる。 | |
| | 10月 | 石原莞爾が吹浦の南西山に転居する。(遊佐町史年表)石原は東亜連盟を率いて東條批判を続けた。また、永久平和時代がくることを確信し、その新しい時代にそなえて都市解体・農工一体・簡素生活をとなえた。新憲法で戦争放棄した日本は、ゴルゴダの丘へ向うキリスト、竜の口に向う日蓮の態度を国家の態度としてとり世界平和のために尽せ、と説いた。 | |
| | 10月11日 | 酒田指物組合が設立する。(上に同じ) | |
| | 10月 | 「経済通信」が発刊される。編集者、河瀬貴與志 | |
| | 11月 | 奥山好、近藤富子、守屋さい、大谷須磨子らにより酒田芸能協会(井山武雄会長、佐藤久吉副会長)が結成され、翌年6月第1回公演を行う。 | |
| | 11月9日 | 商工協同組合法が公布施行される。(上に同じ) | |
| | 11月22日 | 本間重三が助役臨時代理者に任ぜられる。(上に同じ) | |
| | 11月 | 民生委員法により方面委員を民生委員と改める。 | |
| | 11月 | 全日本産業別労働組合飽海地区会議がつくられる。会長、鈴木清五郎。 | |
| | 11月30日 | 自治功労者最上谷直吉が没する。71歳。碧水。出町に生まれ17歳のとき北海道に渡って商売を始める。その後、莚縄卸業をはじめ、のち船場町に回船問屋を開いて千島・樺太・朝鮮方面まで進出して活躍した。昭和10年から4年間県会議員を務める。また漢詩を須田古龍に学ぶ。浄福寺に葬られる。没後に『碧水詩集』が出される。 | |
| | 12月1日 | 日本交通公社酒田事務所が設立する。(酒田市議会史年表) | |
| | 12月9日 | ~12日暴風雪のため庄内地方で死傷者3名、橋破損7ヵ所、道路破損77ヵ所、船舶被害12隻、防波堤破損3ヵ所。9日午後5時43分酒田の最大瞬間風速30・4メートルを観測。 | |
| | 12月10日 | 「週刊酒田」が発刊される。編集者、佐藤三郎。昭和26年2月10日までに計190号が発行され、日刊紙「出羽新報」に引き継がれる。 | |
| | 12月27日 | 三地区農地委員選挙が行われる。(酒田市議会史年表) | |
| | 12月 | 村田与治兵衛が第七代商工会議所会頭となる。 | |
| | 12月 | 袖浦村の浜中字八間山に入植が行われ、八重浜部落がつくられる。 | |
| | | 酒田停車場築港線外15路線の建物疎開跡地に今年度より昭和23年度まで3年継続都市計画事業工事を行う。(酒田市議会史年表) | |
| | | 本間家の農地(小作地)1,750町歩・小作人2,577人。最高時には約3千町歩に達したといわれる。 | |
| | | 日本刀・銃・ピストル等の武器をすべて警察へ提出する。本間家にはかつて二千数百本の刀剣があったが、大部分は戦時中、軍刀として提供し、660本残っていた。米軍はこれを持ち去った。その後、刀剣研究家本間順治が米軍憲兵隊長キャドウェルに交渉し、美術品として価値のあるものは残すことになった。 | |
| | | 日本農民組合県連合会結成。 | |
| | | 伝染病患者320名発生、うち死亡27名。(酒田市議会史年表) | |
| | | 夏、民俗学研究家渋沢敬三、宮本常一外2名が講演の旅の途中立寄る。 | |
| | | 自由党県支部結成 | |