昭和22年(1947)

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昭和22年1947県農地委員会選挙を行う
3月10日「酒田革政会」が結成される。(酒田市議会史年表)
3月20日酒田市経済安定推進委員会が結成される。(上に同じ)
3月24日素封家竹内丑松が没する。71歳。恒孝・淇州・子哉・有斐軒・虚心庵。竹内伊蔵の長男として米屋町で誕生する。将棋に秀で、名人関根金次郎と親交を深め、大正7年井上義雄八段を破って八段に進む。また囲碁を通じて犬養毅・頭山満・国分青厓・古島一雄らと交わる。将棋はもちろん囲碁も県下第一番の腕と評された。夏季には屋敷内に剣道場を設け名剣士高野佐三郎、菅原融らを招聘して剣道の振興につとめた。書をよくした。町会議員を20年間つとめる。著者に『将棋漫話』がある。浄福寺に葬られる。
4月1日大石田疎開中の歌人斎藤茂吉が来酒する。 おほきなる流となればためらはず酒田のうみにそそがむとする ゆたかなる最上川口ふりさけて光ケ丘にたてるけふかも 日和山公園と山王森に歌碑がある。山王ホテルに2泊する。その時の即詠揮毫。「茂吉全集」歌集補遺所収。
4月22日新学制実施に伴い小学校名を次の通り改める。 酒田市第一小学校→酒田市立琢成小学校、酒田市第二小学校→酒田市立光ケ丘小学校、酒田市第三小学校→酒田市立浜田小学校、酒田市第四小学校→酒田市立亀ケ崎小学校、酒田市第五小学校→酒田市立西平田小学校、酒田市第六小学校→酒田市立酒井新田小学校。(酒田市議会史年表)
4月酒田市婦人会が女子高等学院を浜田青年学校の一部に設置する。(上に同じ)
4月酒田家政女学校が酒田天真女学校と改称する。
4月22日最上川の出水により背割堤704メートルが欠壊する。水害
4月22日中学校設置について(校数三校)市立第一中学校を琢成小学校に併設。
市立第二中学校を浜田字堀南39市立浜田小学校に併設。市立第三中学校を市立亀ケ崎小学校に併設する。(酒田市議会史年表)
4月初めて公選市長選挙が行われ、本間重三が第4代市長に当選する。
4月酒田市農業改良普及所が設置される。
4月山形県土木出張所が設けられる。
5月1日極東国際軍事裁判の出張法廷が、商工会議所2階ホールで開かれ、石原莞爾元中将が証人として出廷する。ニュージーランド代表判事ノースクロフト卿が委員長。石原の証言は誠にユニークなもので、若い検事たちを翻弄した。
5月13日本間家別荘を解放して本間美術館とし、酒田美術協会(会長藤井伊一)が運営にあたる。初代館長、本間順治。これは本間祐介が敗戦により自信をなくした日本国民、特に酒田市民に日本美術を鑑賞することにより、日本のよさを知り、自信を回復させたいとの念願から生まれたもので、私立美術館としては戦後最初のものである。その後、同館は高度な日本美術展を催すだけでなく、音楽・茶の湯・演劇その他、文化の殿堂として、また憩いの場として活躍してきた。
5月25日物理学者、中村清二博士が科学者としての松森胤保の研究書「松森胤保:幕末明治の隠れたる科学者」を刊行する。
5月裁判所法により酒田区裁判所が酒田簡易裁判所となる。
5月相馬治太郎が第四代市会議長になる。
5月検察庁法により地方検察庁支部と区検察庁がおかれる。
5月農林省山形県作物報告事務所酒田出張所(現、農林省山形県統計調査事務所酒田出張所)が設置される。
5月末市内における外地等からの引揚者は1,110世帯、人員3,060名。戦災者は909世帯、人員2,071名。未復員者約704名で、そのうち約2割程度は戦死したものと想像される。住宅事情は極めて悪く、市では北千日堂前・妙法寺境内に引揚者住宅を建てて緩和に努めた。
6月24日酒田美術協会主催で両親が庄内出身の諏訪根自子のバイオリン演奏会が港座で行われる。(本間美術館の37年)
7月8日豪雨により最上川が出水し、背割堤105メートルが欠壊、ついで9月20日には20メートル、欠壊し、港内が埋没する。(酒田市議会史年表)水害
7月15日元日満学校跡に結核・性病・伝染病を対象とした公立酒田病院が設立される(市立伝染病院を併設)。初代院長斎藤湨。これは日本での伝染病感染を恐れていた進駐軍の意向というより命令によってできたもの。
この年5月、米軍山形軍政部衛生課長ウォーレン・パイク(Warren H. Pike)中尉は本間市長と一緒に酒田市を視察し、豊里の旧日満学校跡に目をつけた。当時、ここは今町で開業していた鈴木安吉ほか2名が敷地と校舎を手に入れ、結核病院をたてようとしていた。しかし、パイク中尉の命令で、鈴木は買値の64万円で市に譲渡した。医師団は戦争中鶴岡に疎開していた日本医科大学が、それまで経営をまかされていた荘内病院から手を引くことになったので、それをそのままひきついだ。院長齊藤湨は二・二六事件で重傷を負った、のちの首相鈴木貫太郎を手術した名医で、日本医科大の外科部長、教授で病院長を兼ねていた。
7月16日刀剣研究家の本間順治が進駐軍のキャドウェル夫妻を案内して本間美術館にくる。仏像彫刻の権威倉田文作も同行する。(酒田市制50年)
7月24日港祭りが復活する。
7月28日大浜で三島パルプ4棟を焼失する。火事
7月米軍が本間家から光ケ丘の山林四町歩を借用してレーダー基地をつくる。ディーン隊長。
8月2日~3日鳥海山系を中心に300ミリを超す大雨が降り、酒田飽海地方の水田757ヘクタールが冠水する。水害
8月15日天皇陛下が酒田においでになり、炎天の下、日和山公園での市民奉迎会にのぞまれる。奉迎市民は県民歌「最上川」を斉唱、その後、相馬治太郎市会議長の発声で「天皇陛下萬歳」を三唱する。
8月船場町へ酒田ガス株式会社がつくられ、バス・トラックの燃料に供する。
9月3日酒田市レクリエーション協会が設立される。(酒田市議会史年表)
9月新潟税関支署酒田監視署が酒田税関支署になる。
9月稲荷小路に酒田労働基準監督署が設置される。
9月街灯の設備と維持を市で行うこととし、市内約150ヵ所に新増設される。(酒田市議会史年表)
10月1日国勢調査戸数10,433戸、人口49,509人。うち、男23,490人・女26,019人。(上に同じ)
10月16日浜畑町所在の伝染病院を公立酒田病院内に移転する。(上に同じ)
10月21日斎藤茂吉が再び来酒し、浜田の藤井康夫宅に2泊する。21日は酒田短歌会及び山形造船短歌会の同人と最上川に遊ぶ。 「魚くひて 安らかなりし朝めざめ 藤井康夫の庭に下りたつ」の歌碑が藤井邸の庭にある。 面かくす浜の女の風俗を愛しと言ひつ旅のこころに(白き山)
11月20日酒田病院は新たに全科を設けて、病床150床の総合病院として再発足する。
11月27日停電が激しく、無停電運動が起こる。(酒田市議会史年表)
12月13日寒波襲来により酒田港が三十数年ぶりに結氷する。同月18日の港内の氷の厚さは20センチメートルとなり、汽船3隻と機帆船40数隻が釘づけとなる。結氷の原因の一つに、背割堤が決壊し、最上川の淡水が流入したことがあげられる。なお17日結氷中の酒田港に寄港しようとした機航船が3千トン岸壁付近で船腹を破損して沈没、ドラム缶150本を失う。
12月16日本間美術館で第1回歳末募金美術品入札会を行う。(昭和55年11月まで行う)
12月24日酒田市吏員定数条例制定(地方自治法により条例化することになる。事務吏員64名、技術吏員16名)。(酒田市議会史年表)
12月30日全国第2位で米の供出を完遂(104%)する。(庄内経済連25年のあゆみ)
12月荘内農村通信」が発刊される。編集者、富樫広三。
町内会・隣組の制度を廃して、各区に嘱託を置く。
酒田工業学校に機械実習工場を設置する。(酒商八十年史)
酒田港期成同盟会がつくられる。
俳句結社蕉風会ができる。会長柿崎孤村。これは常世田長翠の春秋社の流れを汲む長流舎と翠流舎とがあったのを合同してできたもの。孤村は芭蕉の「凉塚」といわれる句碑をたてた柳下会寸昌(柿崎孫兵衛)と、長翠の高弟であった佐母里(柿崎孫兵衛)の子孫であり、芭蕉の“蕉風”を継ごうとする気持が会名に表れている。
この頃、船場町から日和山公園へ上るところにマーケット酒場ができて、大いに賑わった。
酒田かるた協会が設立される。池田三郎・小松寿雄等。
中町敬天堂書店主、長谷川信夫が酒田の文化興隆をはかり、攷文会をつくり、年に一度中央から思想家や学者をよんで講演会を開く。高橋里美・伊藤吉之助・衛藤即応・中谷宇吉郎・齋藤信治等が来酒する。35年頃まで続く。