昭和25年(1950)

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昭和25年19501月11日飛島村の合併に関する公聴会が商工会議所で開催される。
1月13日地方銀行協会が設立される。
1月14日上内匠町丸本商店内に酒田市物産館が設置される。
1月24日官僚太田政弘が没する。80歳。代言人太田政道の長男として鶴岡に生まれ、のち酒田船場町に移る。東京大学法科卒。内務省に入り、警保局長に累進する。その後、福島・石川・熊本・新潟各県知事を歴任。大正13年警視総監、台湾総督を経て、貴族院議員に勅選される。
2月酒田市消防署西部出張所が鉄興社大浜工場構内に設置される。
3月大浜へ広島燃料興業株式会社酒田工場が設置される。
3月10日東酒田信号所が東酒田駅(一般旅客駅)となる。
4月1日身体障害者福祉法の施行に伴い手帳交付を始める。(酒田市議会史年表)
4月1日「持参金なしの嫁入り」といわれた飛島合併が離島振興の精神により実現する。(戸数209、人口1,621、面積2,317㎡)
4月15日山居町に株式会社庄内青果市場が創立する。(庄内経済連25年のあゆみ)
4月15日寺町妙法寺境内の元労働基準監督署に公益質屋が設立される。
4月 高校統廃合により酒田高等学校設立(第一高等学校・第三高等学校統合)酒田第二高等学校を酒田商工高等学校と改称する。
4月 光丘文庫の建物と図書の一部を借用して酒田市立図書館が発足する。初代館長、村田敏雄(蔵書数1万6千冊、うち1万5千冊を光丘文庫より借用)眼科医の佐藤清治から寄贈された陶磁器や享保雛一対を含む216点は本間美術館に移管された。(本間美術館の37年)
4月 商工会議所内に酒田市中小企業相談所がおかれる。
4月 北部河川工事事務所が設置される。
4月 酒田市上水道拡張工事を始める。
5月高砂に市営屠場を新築移転する。
6月4日100ミリを超す大雨が降り、酒田・飽海郡で888ヘクタールの田畑が冠水する。水害
6月26日実業家根上善造が没する。69歳。根上善兵衛(善吉)の長男として本町に生まれる。丸通自動車社長・日本通運酒田支店長・港運会社取締役となる。昭和24年4月商工会議所会頭となる。
6月伝馬町へ株式会社清水屋百貨店が開業する。
6月酒田海上保安署が酒田海上保安部となる。
7月18日酒田市連合婦人会が結成される。(酒田市議会史年表)
7月31日地方税法の大改正公布施行(県税附加税廃止、市税源は市民税・固定資産税を基本とし、雑税として自転車税・荷車税・広告税・接客人税・犬税・電気ガス税・鉱産税・木材取引税の8種目が定められた)される。(上に同じ)
7月茜谷五市郎の寄付により茜谷義務教育奨学基金が設立される。
7月大滝安吉・池田昭二・北原宏等により詩誌「ら・ぶるーえ(霧)」が創刊され、3号で終止符を打つ。
8月国鉄の機構改革により、酒田駅及びその他の機関が新潟鉄道管理局所属となる。
9月3日早朝室戸岬に上陸したジェーン台風(955ミリバール)は、同日夜半酒田沖を通過、最大瞬間風速31メートルを記録、飛島で60戸の屋根が飛散したほか、畑作物や船舶などに被害を与える。
9月5日新片町の踏切で、庄内交通のバスが下り列車に衝突し、乗客23名のうち8名が死亡、14名が重軽傷を負う。事故
9月10日教育者今野喜平治が没する。63歳。西田川郡青竜寺村に生まれる。昭和9年3月琢成小学校長となって市立実科高等女学校、実業補修学校の校長を兼ねる。名校長と評された。
9月11日酒田観光協会がつくられる。
9月雑誌「荘内文学」が発刊される。編集者、若木蜆二。
9月酒田市立飛島中学校が新築移転する。(酒田市議会史年表)
9月より昭和30年9月まで毎年真宗教学の泰斗曽我量深を徳念寺他に迎えて講座が開かれる。
10月鳥海仮乗降場(のちの南鳥海駅)ができる。
10月酒田市物産輸出協同組合がつくられる。
10月光ヶ丘に市営野球場がつくられる。
10月熊手島簡易水道の給水が開始される。(酒田市水道50年の歩み)
11月3日~5日庄内農業まつりが行われる。(荘内経済年表)
11月27日酒田市青年団連合会が発会する。(酒田市議会史年表)
11月高田新田で11戸を焼失し、全地区が移転する。火事
12月18日寒冷前線を伴った典型的な冬型の気圧配置となり、1時28分酒田測候所開所以来の最大瞬間風速43.6メートルを記録、5時ごろから猛吹雪となり、25本の電柱が倒壊、通信が途絶するなどの被害が出る。
12月23日県立本楯高等学校の新校舎が落成する。
12月井山武雄が第9代商工会議所会頭になる。
12月火葬場が高砂に新築移転し、電気式を併設する。
12月庄内地区労働組合会議が結成される。
第一回庄内・最上・由利地区中学校服装手芸競技会を開催する。(天真高等学校)
戸野町小中島線の都市計画事業が始まる。
光ヶ丘競技場整備工事が完了する。(酒田市議会史年表)
海岸砂防造林事業が我国最初の国営十五ヵ年継続事業として10月より着工される。(上に同じ)
本間家に所蔵されている「市河文書」は平安時代末から戦国時代まで、長野の豪族であった市河家に伝わる武家文書で、昭和11年5月6日に国宝に指定されていたが、このたび16巻147通が国指定の重要文化財となる。(本間美術館の37年)
市役所職員組合の文化部が文芸誌「新樹」を刊行する。
市役所職員を中心に「渦潮短歌会」ができる。主催者村田敏雄・鈴木孝吉。また大内一晃(句鬼)を中心に俳句会もつくられており市職員の文化活動が盛り上がる。
この頃「酒田碁会」ができ、本町七丁目のビリヤード場の一室を借りて碁会所とする。会長小林英一郎。戦前より普明寺を会場に住職鈴木宣正を中心に囲碁の同好会があった。昭和29年、鉄興社の佐野社長が小幡に坂田栄男九段を招いて、指導対局を催したのを機会に、酒田碁会と普明寺の同好会が合同し、日本棋院酒田支部が結成される。会長鉄興社工場長橋本岩治郎。
この頃まで盆の13日の墓詣りには、箪笥の底を拂って一家が綺羅をまとい、打揃って市中をこれ見よがしに歩く風習があった。