昭和29年(1954)

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昭和29年19541月4日「出羽新報」を引き継ぐかたちで「日刊庄内」が発刊される。
1月酒田港湾振興会がつくられる。
1月「酒田新聞」が発刊される。発行者、斎藤寿夫。
1月「サン酒田」週刊写真新聞が発行される。発行者、武長貞作。
1月成田晴夫の詩集『緑地』が刊行される。
2月3日午後8時半頃、800人の観客がいる中、港座の2階天井裏から出火、明治20年築の建物(延床面積380平方メートル、収容人員900人)を全焼する。
2月11日酒田天然ガスによる都市ガス事業が開始され、家庭用のガス供給が始まる。
3月本間元也が第六代市会議長になる。
3月酒田労働基準監督署が浜田に新築移転する。
3月浜田に地方法務局酒田支局の新庁舎が竣工する。
3月鳥海上水道組合がつくられる。
3月市営野球場が光ヶ丘に完成する。(酒田市制50年)
3月斎藤信治と富樫広三の共著『読書の思いで』が刊行される。
3月鈴木孝吉の歌集『臨港線』が刊行される。
4月16日昭和13年に架橋した木橋に代わり、昭和25年8月に着工した外野町小中島線の新内橋(永久橋)の渡り初め式を行う。
4月本楯保育所が設立される。
5月酒田市史編纂委員会が『酒田市史上巻』を出版する。
5月京田川に宮野浦橋が架橋される。
6月12日~14日田中仙樵が日本茶道学会茶会に来酒し、来館する。(本間美術館の37年)
7月1日秋田相互銀行酒田支店が開店する。(荘内銀行百年史)
7月1日酒田電信分局は酒田郵便局と合併する。
7月4日作家大宅壮一が来遊し、日本拝見「酒田」(週刊朝日7月4日号)が発表される。(上に同じ)
7月警察制度改革によって市警察は廃止され、酒田警察署となる。
7月 県立酒田青鳥学園が海妟寺境内から光ヶ丘58の4に新築移転する。
8月1日西荒瀬村が酒田市に合併する。
8月2日教育者梅本八郎が没する。67歳。兵庫県に生まれる。大正14年酒田中学校校長となり昭和6年鶴岡中学校長に転ず。この間昭和3年には斎藤宗雄らと庄内博物学会の創設に参画する。山形市東原町二丁目神道墓地に葬られる。
8月7日写真家名取洋之助・園部登が来館する。(本間美術館の37年)
8月7日港祭り花火大会で打上げられた尺玉が地上すれすれに落下して爆発したため、観客1名が死亡する。
8月24日農機具サービスステーションが竣工する。(庄内経済連25年のあゆみ)
8月酒田電話局舎を増築する。
県農業協同組合中央会が設立する。
9月26日台風15号が昼過ぎ酒田沖を通過、最大瞬間風速33.5メートルを記録、家屋や船舶、田畑に被害を与える。
函館港沖では洞爺丸を含む5隻が遭難し、死者1,218名、行方不明196名の犠牲者を出す。
9月鳥海上水道事業が認可される。玉田・本楯・北平田・東平田・観音寺・一条の6力村による一部事務組合として着工。工費1億2800万円)(酒田市水道50年の歩み)
9月新井田橋(眼鏡橋)の架替工事が竣工する。3ケ年度事業として昭和27年4月に着工したもので、工費1377万7千円、旧橋から約10メートル下流に架橋したもの。旧橋は昭和29年中にほぼ撤去され、その石は約10年後、主に実小路側の市役所敷地の縁石に使われた。
10月19日台風による土砂崩れのため半壊した飛島中学校が完成し、竣工式を行う。
10月前東大総長、政治学者、南原繁が来酒し琢成小学校で講演する。
10月雑誌「酒田農青連」が発刊される。発行者、農協青年連盟。
10月新憲法のうみの親、憲法学者で国会図書館長の金森徳次郎が記念講演で来酒する。光丘文庫に「読書人日新」の横額がかけられている。(酒田市制50年)
11月荘内銀行浜町支店ができる。
12月1日町村合併促進法により近郷の新堀・広野・袖浦・東平田・中平田・北平田・上田・本楯・南遊佐の9力村を合併する。このため酒田は一躍面積171平方キロ、人口93,719人となる。ここに酒田は港町・米都・商工都市を中核としながらも周辺農村地帯を包含することになり、商工農都市となった。
12月20日鉄興社でストが行われる。
12月近村合併により酒田市消防団が15分団、定員2372名に編成替をする。
12月山形県港湾計画会で酒田港の「十ヵ年港湾計画」を決定する。
光ケ丘に初めて市営アパート「静ケ台荘」がつくられる。
作家久保田万太郎が来遊する。「日本海の波」(別冊文春第38号)が発表される。(上に同じ)
吉野弘・佐藤十弥・太田清蔵等が詩誌「緑館」を発行する。
観世流の謡曲をたしなむ会として敬謡会酒田支部ができる。
最上川の筏流しが最後をつげ、その後トラック輸送となる。(市史史料篇七)