昭和30年(1955)

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昭和30年19551月湯野浜合併問題がおきる。
3月新町光ケ丘に東邦アセチレン株式会社酒田工場が設置される。
4月南遊佐地区に鳥海保育園がつくられる。
4月南遊佐中学校を廃し、鳥海中学校に統合する。
4月30日市長選が行われ本間重三が三選される。
4月酒田市連合青年団が結成される。
4月酒田市連合婦人会が結成される。
4月安祥寺に花園幼稚園が創設される。(酒田市制50年)
春になると大浜海岸は連日大羽鰯漁でにぎわい、市民の食卓をかざった。
5月8日西埠頭に小野田セメント株式会社酒田サービスステーションが竣工する。
5月公立酒田病院の結核病棟(50床)の増築工事(工費680万円)が竣工する。(酒田市議会史年表)
5月山木武夫が第7代市議会議長になる。
5月船場町に株式会社新日漁業がつくられる。
6月24日~25日豪雨により、主要河川が警戒水位を1.5メートル以上超え、氾濫し、5千町歩が冠水、甚大な被害を受ける。(酒田市議会史年表)水害
6月光ケ丘グランドが県内初の第一種陸上競技場に指定される。
7月4日庄内地方大洪水。水害
7月23日上内匠町に新発田市のシバタ文化興行株式会社による定員650人のシバタ映画劇場が開館する。
7月飛島が離島振興法の実施地域に指定される。
8月4日駅前通りの矢口旅館前に酒田酒造組合によるネオンアーチ(工費170万円)が完成し、竣工式を行う。
8月6日・7日秩父宮賜杯第8回全国高校陸上競技対校選手権大会が市営光ヶ丘陸上競技場で開かれる。酒商の浜田誠一が400メートルで優勝、200メートルで2位となる。
8月31日両羽博物図譜(松森胤保著、光丘文庫蔵)が県の文化財に指定される。
8月延命寺板碑群が史跡名勝天然記念物に指定される。
8月臨港線をまたいで光ヶ丘と新町をつなぐ光ヶ丘橋(旧高砂橋)が鉄橋として竣工する。
9月14日文芸春秋講演会が琢成小学校講堂で開かれ、阿部真之助・火野葦平・村上元三・那須良輔等が来酒する。
9月20日庄内農協会館が竣工する。(荘内経済年表)
10月1日国勢調査、世帯数18,346戸、人口男46,365名・女50,370名、計96,735名。(酒田市議会史年表)
10月25日井山武雄遺作展(洋画)が開かれる。井山は創立以来美術協会副会長として美術館の創設経営に尽力し、昭和28年11月25日急逝した。その三回忌に当り遺作展を開く。ホテル菊水を経営する。(本間美術館の37年)
10月持地院に若草幼稚園が創設される。(酒田市制50年)
10月多雨寡照のため降水量は平年の1.6倍、日照時数は平年の8割と少なく、秋上作業に大きな支障をもたらす。しかし、この年は豊作となる。県内の作況指数127。
11月4日自治功労者佐久間太が没する。58歳。佐久間喜佐治の長男として山形平清水に生まれる。敗血症の研究で医学博士となる。のち酒田上内匠町で内科医を開業。昭和22年革新系から推されて県会議員となり副議長をつとめる。また革新系市長候補として2度本間重三と戦う。山形市耕竜寺に葬られる。
11月本間元也が多年地方自治に尽した功により藍綬褒章をうける。
11月本間美術館と酒田美術協会が茂吉文化賞をうける。
11月『坂野辺新田の発達』が発刊される。著者、長井政太郎。
12月天王下に石油資源開発株式会社酒田鉱業所が設置される。
12月鶴岡市史編纂会が『荘内史年表』を刊行する。
法定伝染病329名発生、うち6名死亡する。(酒田市議会史年表)
市原家の親類でフランス文学者、東大教授市原豊太が来遊する。のち酒田の早春を誌一した『高嶺の雪』が発刊される。(酒田市制50年)
中町中村太助商店の屋上に網を張り、ゴルフの練習をする。まもなく庄司三郎(スポーツ店)や梅屋幸太郎らが宮野浦の放牛場で、ゴルフの練習を始める。
伊藤永恒が自坊の海向寺で嵯峨御流華道の指導をする。
この頃、酒田美術クラブが結成される。主要メンバーは高山長一郎・土井栄・加藤丈策・堀正ら。