昭和34年(1959)

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昭和34年19591月4日午後10時ころ、酒田港口付近で太洋漁業所属の新造船第三光丸19トンが突風にあい遭難、乗組員5名が行方不明となる。事故
1月26日酒田信用金庫本店が本町七丁目角に新築移転する。
1月米仲買商、元商工会議所会頭、市史編纂委員、船場町の荒木幸吉が没する。87歳。多年酒田の発展、特に商工談話会を主催し、鉄道誘致や港湾改修に尽力。町会・市会議員を歴任する。著書『米の生活五十年』他。藍綬褒章をうける。妙法寺に葬られる。
2月農林省最上川下流右岸農業水利事務所が設置される。
3月4日夜、竜巻が最上川から市街に上陸、20戸の民家の屋根が飛散、電線が切断するなどの被害が発生する。
3月 32年9月から続いていた、本市最長期といわれる日新電化の労働争議が激化し、再び3月23日から無期限ストに突入する。飽海地区労をはじめ、革新系から支援を受ける。苦しい中を最後まで戦いぬいたことは地区労内各組合に大きな勇気を与えた。
3月28日サントリー・ホームカクテル・コンクールで井山計一(現ケルン店主)の「雪国」が3月18日に東北大会で最優秀賞を受賞し、全国大会で第3回ノーメル賞グランプリを受賞する。
4月新堀中学校が第四中学校に統合される。(酒田市制50年)
4月飛島簡易水道が竣工する。(酒田市水道50年の歩み)
4月激戦の末、9票の差で小山孫次郎が第5代市長に当選し、当市に初めての革新市長が出現する。ただし、明治14年自由民権家森藤右衛門が圧倒的多数で酒田戸長に選ばれている。
4月27日京都円山公園音楽堂でボーカルスタジオが「フィガロの結婚」全4幕を公演する。
5月3日井伏鱒二が東北釣探訪で本間美術館に来館する。(本間美術館の37年)
5月7日飛島診療所が開院する。(市立酒田病院創立五十周年記念誌)
5月16日渋谷勇夫が第九代市議会議長になる。
6月吉野弘の詩集『幻・方法』が刊行される。
6月俳誌「氷壁」が発刊される。編集者、秋沢猛、その少し前氷壁俳句会がつくられる。同人は秋沢猛・斎藤十象・吉田木底・高橋元良他。
6月県営で新井田川改修工事を始める。
7月1日上中町の丸竹魚店跡に複数の店舗が入居する「てぶくろ横丁」が開店する。
8月5日酒田地区安保改定阻止決起大会が開かれる。
8月15日酒田古来の盆踊り唄をアレンジした「酒田盆おどり唄」(キングレコード C-5280)を新たに録音した大宮出身の歌手佐藤節子を招いて、日和山公園で第5回酒田盆踊り大会を開催する。
9月1日国民年金制度が発足し、国民福祉年金事務受付が開始する。(酒田市議会史年表)
9月16日酒田ロータリークラブ設立、初代会長荒井清、会員数25名。
9月27日伊勢湾台風通過、県下の被害10億円を超す。
9月酒田文化団体会議が発足する。議長佐藤三郎。この年から酒田市民芸術祭を文化団体が市の委託を受けて主催する。
9月歌人の佐藤佐太郎が来酒する。晴れわたる海のむこうにおほどかに鳥海山はいただき曇る
9月佐藤三郎の『酒田の散歩』が刊行される。
10月1日山居町郵便局が業務を開始する。
10月20日松山出身の哲学者阿部次郎が没する。76歳。著書『秋窓記』の中に最上河と題して酒田を書いた一文がある。 酒田は日本海の要港であった。それは河村瑞賢以来大阪との直接航路を持ち、既に西鶴の「一代男」に世之介が荘内米買出しに下る話が出て来るほどに経済的関係があり且、その人種においても最上、米沢、仙台地方とは系統を異にする美人が多かったとすれば、最上地方が酒田を当世文化の入口として見上げてゐたことも自然に想像し得られるであろう。
10月教育者、郷土史家、市史編纂委員、下内匠町荒木柳作が没する。67歳。『酒田市史』の編さんに従事する。
11月彫刻家、高橋剛が茂吉文化賞をうける。
11月富沢襄の『飽海史話』が刊行される。
11月酒田入港最大の大型貨物船、英国船ミプレ号(一万トン)が入港する。
12月6日最上川農業水利事業の起工式が行われる。(酒田市議会史年表)
12月19日NHK山形放送局テレビ放送を開始する。
12月20日ト一屋が中町本店を食堂や衣料品もそろえた川喜田煉七郎設計による4階建てのくらしのセンターとして改築オープンする。
この頃最上川河川敷で草競馬が催された。馬車を引くもので、長くは続かなかった。
光ケ丘地区市営住宅入居世帯数318、建坪2932坪7合6勺。
飛島の岩ノリ増殖コンクリート造成事業が始まる。
飛島漁協婦人部が発足する。
日本海流網漁業が始まる。旅館9軒となる。(飛島誌)