昭和35年(1960)

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昭和35年19601月5日低気圧が日本海で発達し、暖かい南風が吹き込んで春一番となり、1月としては観測開始以来の異常高温15.5度を記録する。
2月17日農民運動家小島小一郎が没する。72歳。小島吉郎の子として生まれる。青年の頃から農民運動に挺身する。県会議員、昭和20年日本社会党結成大会に参加する。安祥寺に葬られる。邸内に昭和28年12月「小島小一郎翁顯功碑」が建立される。河上丈太郎てん額・斉藤寿夫選文・亀川馬之助書。
2月27日NHK鶴岡放送局テレビ放送開始。
3月市政の功労者、市史編纂委員長、本間元也が没する。75歳。松嶺の小華和業修の三男として生まれる。本間吉則の婿養子となる。山形師範卒。長く教員をつとめる。本間家農政を本間光勇とともに担当し、小作争議の解決に努力する。大正10年酒田町助役、長く町会・市会議員・議長を歴任し、良識派といわれる。浄福寺に葬られる。
3月青年センターでは浜田一丁目に市民集会所を新築落成する。工費50万円。
4月1日公立酒田病院(豊里)と社会保険病院(山居町)が統合して市立酒田病院が発足する。院長、水谷兼晃。公立酒田病院の建物は豊里分院となる。
4月21日国民金融公庫酒田支所が開設される。(酒田市議会史年表)
4月22日夜11時50分ごろから約1時間にわたり、直径最大2.1センチの降雹を伴った雷雨があり、酒田では小舟6隻破損、倒木、トランスの焼損などが生じた。
4月酒田駅の改築を始める。工費2億8千万円、本年中完成の計画。
4月写真家土門拳の作品「ヒロシマ」が第一回国際報道写真展で金賞をうける。
4月鳥海上水道事業を酒田市上水道事業に繰り入れる。(酒田市水道50年の歩み)
5月9日本楯の三ッ橋が完成する。工費600万円。(酒田市議会史年表)
5月『酒田市史年表』が出版される。刊行者、酒田市役所。
7月9日~10日、安藤更生早大教授、小片保新潟大教授等により海向寺即身仏のレントゲン等による学術調査が行われる。
7月11日日ソ協会酒田支部が発足する。支部長、小山孫次郎。
7月20日本間焼の楽焼窯火入式を東京芸大浅野陽・三浦小平二の指導で行う。「長次郎」「のんこう」といった名品に接して作ったものが来館した村瀬治兵衛の目にふれ、指導を受け、また小山富士夫の助言教示をうけ、本格的に楽焼をやる。まもなく加茂川石の入手に成功し、遂に本間焼として名をあげるまでに致った。本間焼とよばれ本間祐介と池田退輔の作品は次第に広く世に知られるようになった。特に退輔は陶工百人中でも注目される一人に数えられる聿でになった。(本間美術館の37年)
7月20日光ケ丘松林に市民プール(50メートル)が完成する。(酒田市議会史年表)
7月新堀・広野・西荒瀬簡易水道事業を酒田市上水道事業に繰り入れる。(酒田市水道50年の歩み)
9月10日国語学者、アイヌ研究家金田一京助が東高校で記念講演を行う。(本間美術館の37年)
9月マンモス貨物船協和丸1万519トンが入港する。
9月米の政府売渡しが百万石を突破する。(庄内経済連25年のあゆみ)
10月10日義宮殿下が東北御視察の途次来酒する(現常陸宮殿下)。
10月新潟検疫所酒田出張所が完成し開所する。(酒田市議会史年表)
10月荒井清が第11代商工会議所会頭となる。(上に同じ)
10月市議会議員早藤八二郎が藍綬褒章を受ける。
10月酒田市上水道創設三十周年記念式典が行われる。(酒田市水道50年の歩み)
10月この年の外国船の入港、61隻。
10月彫刻家北村西望が来館する。(本間美術館の37年)
10月さかた踊りを楽しむ会が発足する。会長高杉敏雄。この頃、毎年、夏になると日和山公園で市民盆踊り大会を開催する。
11月3日妙法寺の本堂が落慶する。鉄筋コンクリート。工費約5千万円。56年には開山堂ができる。
12月8日池田正之輔が国務大臣(科学技術庁長官)となる。
12月10日酒田古湊沖で漁船が遭難し、5名死亡する。
12月15日酒田駅が新築完成する。(工費8千万円)。盛大な完成祝賀行事が催される。
12月21日大川周明蔵書のうち和・漢・洋の図書約3千冊の寄贈を受け、「大川周明文庫」として光丘文庫に保管する。中に中国刊「常州有板経」645冊があり、仏教書としてきわめて貴重である。これは日中戦争当時、日本軍が寺にあった「常州有板経」を焼こうとしていたのを、止めさせたところ、和尚からもらったものという。なお、大川の落書のある辞典もある。
12月黒森簡易水道事業が竣工する。(酒田市水道50年の歩み)
酒田市教育委員会が「科学賞」規程を制定する。
光ヶ丘小学校に中学校精薄特殊学級を開設する。