昭和46年(1971)

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昭和46年19711月8日中央板紙㈱誘致による工場公害反対の漁民総決起大会が開かれる。(酒田市議会史年表)
2月5日言論人、久松宗六が没する。87歳。愚公、秋田町に生まれる。日本大学法科卒。酒田新聞の主筆として敏腕を振い人物評論で知られた。町会・市会議員を歴任する。
2月26日学究北村多一郎が没する。80歳。漢学に志し東京に出て独学、郷土出身の哲学者伊藤吉之助の紹介により中国哲学者宇野哲人に師事する。易経に通じ、生涯独身を通した。
2月渡会吉郎の歌集『凍る河』が発刊される。
3月28日新青渡橋が完成する。工費422万円。(酒田市議会史年表)
3月酒田税務署は光ケ丘二丁目2番36号(現在地)に庁舎を新築移転する。
3月中央高校のグランド造成工事が竣工する。
3月両羽橋のたもと草刈谷地へ第三軽工業団地を起工する。
3月『句鬼山居剳記』(随筆集)が発刊される。著者、大内隆。
3月31日県立酒田青鳥学園が山形青鳥学園に吸収統合され、廃止される。
4月16日生活流通センターが竣工する。(庄内経済連25年のあゆみ)
4月25日市長選で革新系の現職小山孫次郎をおさえて「躍進酒田」をキャッチフレーズにした保守系の相馬大作が第6代市長に当選する。
4月東大町一・二丁目地区、東大町第二土地区画整理事業が完了する。
5月1日船場町に県立海洋センターが開館する。
5月6日俳人阿波野青畝(俳誌かつらぎ主宰者)が酒田みちのく白鳥句会の招きにより来酒し、象潟にもゆく。 さかのぼる卯波を見よや最上川
5月16日新劇俳優滝沢修・清水将夫一行が来館する。(本間美術館の37年)
5月29日本間武次郎が没する。74歳。旧姓若松。鶴岡に生まれる。早稲田大学理工学部卒。鉄道省に入り、のち酒田、本間操の養子となり、飽海電灯所の主任技師となる。昭和22年から同26年まで教育委員、酒田市会議員。農林省出版の『本間家文書』八巻の編集に当る。酒田古文書同好会の会長として活躍した。
5月五十嵐義夫が第14代市議会議長となる。(酒田市議会史年表)
5月広域暴力団山口組が、住軽アルミ誘致による酒田港荷揚人夫の利益をねらって酒田進出をはかる。県警では地元暴力団との衝突を恐れて、進出を未然に防ぐため、駅頭を中心に厳戒態勢をしく。一時、市民は不安におそわれる。
6月1日北港背後地内産業公害総合事前調査が行われる。(酒田市議会史年表)
6月14日~16日版画家棟方志功夫妻が来館し、歓迎パーティーを行う。(本間美術館の37年)
6月17日赤川干拓灌漑排水事業が竣工する。
6月19日暴力追放都市宣言を行う。(酒田市議会史年表)
6月20日益子焼の浜田庄司夫妻をはじめ、民芸協会全国大会一行70名が来館する。(本間美術館の37年)
6月飛島簡易水道拡張工事が完成する。(酒田市議会史年表)
6月船場町の元地方事務所跡地に市営有料駐車場が設置される。(酒田市議会史年表)
7月1日庄内広域行政協議会が設置される。(上に同じ)
7月15日酒田港で異常濃度の鉛が検出される。(上に同じ)
7月16日庄内に集中豪雨、23ヵ所で交通が途絶する。ガケ崩れで4名死亡する。水害
7月20日松陵小学校のプールが完成する。
7月26日城輪柵跡の全面的な発掘調査を行う。3ヵ年計画。(酒田市議会史年表)
8月31日小袖屋デパートが閉店し、友の会等で波紋を呼ぶ。
8月『唐の大王鳥』(方言昔噺)が発刊される。著者、佐藤公太郎。
9月16日酒田港湾水域での重金属汚染が表面化する。
9月30日県公害課は、重金属たれ流しの三工場に改善を勧告する。
9月『髪譜』(詩画集)が発刊される。著者、佐藤十弥。
9月庄内くみあい飼料㈱工場が竣工する。(庄内経済連25年のあゆみ)
9月22日人間国宝、常磐津の菊三郎が来酒する。
10月7日元市議会議長是谷菊治が没する。62歳。鉄興社に入り労働運動に従事する。昭和25年社会党に入党。26年市議会議員に6期当選。社会党酒田支部長となる。
10月13日県・酒田市総合防災訓練が行われる。(酒田市議会史年表)
10月13日ソ連のウラン・ウデ市長が来酒する。(酒田市制50年)
10月31日酒田清掃事業所の新ごみ焼却炉が完成する。(酒田市議会史年表)
10月住友軽金属の北港背後地への酒田進出が決定する。これにより、アルミ産業の将来性への不安と、公害発生を恐れて、進出に反対する勢力と、大企業を誘致しなければ酒田の発展はありえないとする賛成派の間で、市民を二分する抗争が激しく展開される。
10月海晏寺に坐禅堂ができる。海晏寺参禅会を中心に、浜田小学校や各種団体の参禅修行が行われ、当地に禅凰を挙揚する。
11月2日酒商で新テニスコート(三面)、新弓道場、グランド防球ネットの合同竣工式典を挙行する。(酒商八十年史)
11月3日本楯公民館が完成する。150㎡、工費1,600万円。(酒田市議会史年表)
11月3日社団法人十全堂社が酒田市表彰条例による表彰を受ける。(上に同じ)
11月9日事業家丹波恒夫が没する。88歳。丹波恒堅の三男として上内匠町に生れる。大正13年横浜に丹波商会を設立し、以来輸出貿易の振興に尽瘁する。また浮世絵の収集家としても名高く、のちにそのコレクションを神奈川県立博物館や本間美術館に寄付した。著書『横浜浮世絵』『江戸から箱根まで』『広重一代』『明治のおもかげ』その他。
11月11日宮下湖舟が高山樗牛賞を受賞する。
11月20日小袖屋デパート跡を買いうけ、大沼デパートが開店する。
12月1日庄内猛吹雪。国道7号線と47号線が不通となる。
12月6日光ヶ丘小学校(現琢成小学校)の新校舎が完成する。
12月10日市政の民主化と市民文化向上を目的として「かわら版」が月2回発行される。発行者、佐藤善三。49年12月25日、74号をもって廃刊する。
12月25日北港開発と公害を考える市民対話集会が産業会館で開かれる。(酒田市議会史年表)
12月27日山形県と東北電力が、酒田火電建設の協定を結ぶ。
12月30日教育者斎藤辰が没する。86歳。松嶺の商家に生まれ織物を業とする。大正12年、39才のとき酒田浄徳寺を借用して裁縫塾を営む。のち駅前に裁縫女学校を設立。天真学園高校の設立母体となった。林昌寺に葬られる。天真高校内に夫又治とともに胸像がある。
国道7号線おばこおけさラインが完成する。
この年から50年まで酒田古文書同好会と酒田青年会議所共催により羽黒町の東北振興研修所長で教育者、農政者の菅原兵治を招いて毎年一度の講演会を開く。
この頃五井昌久の主宰する宗教団体「祈りによる世界平和運動」に浜田の阿部幸子が初めて入会する。
成田文男を中心に酒田吹奏楽団が結成される。
この年、異常低温と日照不足で凶作となる。北海道を除き、全国で下位から二番目の作況指数90は、本県として戦後最低のものとなる。
作家島田一男が来遊する。『飛砂の女』(別冊小説宝石9月号)を発表する。(酒田市制50年)
この頃北港開発のため宮海地区の松林から約40万本から50万本ともいわれる松を切り倒す。自然環境の変化が心配される。