昭和50年(1975)

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昭和50年19751月『私の紋章』(自叙伝詩集)が発刊される。著者、佐藤十弥。
2月15日札谷地土地区画整理組合事業が竣工する。
2月24日体の不自由な人のため、市役所や市民会館入口に車いす、乳母車用スロープをつくる。
2月駅東一・二丁目地区、駅東第二土地区画整理事業が完成する。
3月12日日本重化学工業㈱との間で公害防止協定を調印する。(酒田市議会史年表)
3月『琢成百年』が発刊される。琢成百年記念会刊。
3月浜田一丁目地区、駅南土地区画整理事業が完了する。
3月酒田市緑化推進条例が制定される。
4月1日酒田・飽海一市四町の農業共済組合が合併し、庄内農業共済組合が発足する。(松山町史年表)
4月1日学区改編により光ケ丘小と琢成小が合併、旧光ケ丘小地内に新たに琢成小が発足する。
4月1日鉄興社が東洋曹達工業株式会社に合併、資本金179億円。昭和58年分離して、東北東ソー化学株式会社となる。資本金4億円。
4月10日酒田市と東洋曹達が公害防止協定を結ぶ。
4月11日飛島のムベ・モチの木・ハイビャクシンなどが市指定天然記念物となる。(酒田市制50年)
4月27日市長選挙で相馬大作が市長に再選される。(酒田市議会史年表)
4月浜中中学校を第四中学校に統合する。(酒田市制50年)
5月1日酒田保健所が浜田小学校前から若浜町に新築移転する。(酒田市議会史年表)
5月15日斎藤辰夫が15代市議会議長となる。(上に同じ)
5月酒田市体育協会が財団法人に改組される。
6月1日噴火から1年4ヵ月を経て、鳥海山の入山規制が解除される。
7月5日堤町に市営屋内温水プールが完成する。(酒田市議会史年表)
7月10日飛島に総合センターが完成する。2億1100万円、48年着工)(上に同じ)
7月21日市の木に「タブ」の木、市の花に「トビシマカンゾウ」を決定する。(上に同じ)
7月26日北港工業用水道が通水する。
7月日米親善高校レスリング交歓酒田大会が開催される。
7月市営光ケ丘庭球場南コートに照明灯を設置する。
8月6日朝からまる1日降った集中豪雨(211ミリ)は日向川の曙橋を押し流し、橋に添架してあった配水管も流失したことから南遊佐地区が断水する騒ぎになった。酒田での田畑の冠水166ヘクタールに達する。(酒田市制50年)水害
8月10日市中央公民館が旧本間家本邸から旧琢成小学校舎へ移転する。(酒田市議会史年表)
9月1日山形県庄内地区公害センターが設置される。
9月6日画家小野竹喬が「奥の細道」のスケッチ旅行に来酒する。(本間美術館の37年)
9月19日酒田駅弁中毒事件が発生し、3名が死亡、患者は130余人に達する。
9月27日駅前再開発事業が完成する。(酒田市議会史年表)
9月新橋一丁目・北新橋一・二丁目・曙町一丁目・富士見町一丁目地区、札谷地土地区画整理事業が完了する。
10月1日酒田北港地域大気環境監視テレメーターが始動する。
10月1日駅前にジャスコと東急インが開業する。
10月1日国勢調査実施、人口97,723人。(酒田市議会史年表)
10月6日飽海地区労では共同火力、住軽アルミの工事着工反対闘争本部を現地に設置し、8日から13日にかけて阻止行動を展開する。11月9日県のあっせんにより中止する。
10月12日市街地の一方通行を実施する。
10月『荘内藩酒井家』が発刊される。著者、佐藤三郎。
10月日朝親善サッカー交歓大会が市営陸上競技場でひらかれる。(酒田市制50年)
11月1日老人ホーム松林荘が光ケ丘から緑ケ丘に移転する。(3億2,300万円。49年、50年2ヵ年事業)(酒田市議会史年表)
11月4日市民の健康を守る大気環境監視テレメーターシステムが完成。計測開始する。(上に同じ)
11月19日酒田農協会館が竣工する。
11月佐藤公太郎(みちのく豆本主宰者)が茂吉文化賞を受ける。
12月12日酒田地区広域消防体制が整う。
12月『酒田病院のあゆみ』が発刊される。編集、市立酒田病院創立二十五周年記念誌編集委員会。
酒田東高校女子弓道は、秩父インターハイで優勝する。(酒田市制50年)
池田淳子は(池田銃砲店)茨城全国クレー射撃大会の、スキート女子で優勝する。(上に同じ)
今林貞一は全日本体操選手権で、タンブリンに優勝する。(上に同じ)
この年および51年にわたり永田修三は全日本社会人軟式庭球選手権大会、成人の部で、2年連続優勝する。
酒田市幼児教育振興協議会が発足する。
酒田短期大学長村越潔が嵯峨御流の華道教室を開講し、短大と保育専門学校の学生に教える。講師に中央から井出宝泉がくる。
大宮に工業団地が整備される。
広野地区のカブトエビが絶滅して、県の史跡名勝天然記念物の指定が解除される。
この年、好天に恵まれ史上最高の豊作となる。県内の作況指数112。