之ヤライ、其内ニ二重簀垣囲ヒ、内外ゟ不レ見様ニ仕立、表裏御
門四ケ所、御足軽番所江相詰、入出厳重ニ相改候。扨、御小屋造作之
次第ハ、掘立柱・葉萱葺、或ハ麦から葺也。二重簀囲・ころ
ばし根太・板敷、御中之分ハ障子も御座候。以下ハ間戸計也。
御家老・御小姓頭居間計小松表、其余不レ残七嶋へりなし
の畳ミ、人足小屋ハ板敷藁莚、役人共も人足小屋仕切いたし、
組々合同ニ御座候。賄方ハ惣体百川屋茂左衛門仕出ニ御座候所、大食
之百姓共、毎度空腹ニ相成候ニ付、百姓之分ハ不レ残手賄ト成、
米・味噌・野菜類、鍋・釜共食器一切、御渡被レ成候。可レ成者
わつハ江飯森、右ふたニ汁を森候組も御座候。勝手次第ニふげ
込し、二三日すき候得ハ鯡・塩引・鯨等被二下置一候。酒ハ御普請中
禁物ニ被二仰付一候得共、沢庵漬と唱、四斗樽ニ而被二下置一候。諸事御手厚
之御取扱、少しも御安事被レ下候義無二御座一候。道中ゟ霍乱気
味之者、一両人ツヽ有レ之所、此頃ハ追々全快いたし候
一、古堀筋御普請場之義ハ、天明三卯年田沼侯御威勢を以、
印旛沼ゟ毛見川村迄掘割、只今ハ亀ヶ崎外堀位之模様ニ相成
居候。何レニも平地四五丈位ツヽ堀開候義ハ、誠ニ莫太之御場ニ御座候。此
度ハ曲を直し、巾も広く、深サ水中三丈余掘揚、両岸壱番
高き所ハ九丈四五尺杯之所も御座候。御国元ニ而考候よりハ余りニ
相違いたし、広太成事ニ御座候。此模様ならハ、中々御成就無
二覚束一、人夫六十万人も相掛可レ申、御入用高二十万両位と申
見込ニ御座候。此通ニ而ハ、御身上も、御家来御百姓共も、不レ残古堀
筋の蛇の食ニ相成可レ申、誠ニ大変。御所替も同様と奉レ存候