108枚目

一、同月四日四ッ時、白山林村     秋山道道悟信士 四十二才 市郎兵衞
一、同月七日暮六ッ時、長沼村      永山了海信士 二十七才 寅 治
一、同月八日暮六ッ時、黒川村      昭誉道哲信士 六十才  彦 作
一、同月廿四日明方、大脇部村 土葬   観阿道晢信士 五十七才 仁兵衞
一、同月廿五日五ッ時、狩川通中島村   隨円阿光信士 二十六才 惣兵衞
一、同月廿六日朝、十日町村       嶺霜道極信士 十八才  弥 惣
一、同月廿八日夜九ッ時、広野新田村   実心道性信士 五十五才 清五郎
一、同月廿九日朝、平津新田村      即往道諦信士 四十八才 藤十郎
一、閏九月二日四ッ時、櫛引中島村    阿光道清信士 五十一才 茂左衛門
一、月日同       阿部奥や村   倩山道澄信士 四十一才 定 助
一、同月同日夜    平津新田村    凉盤道知信士 三十四才 源 七
一、同月七日六ッ時半、梳代村 土葬   恵勝道善信士 五十一才 彦左衞門
 
一、同月八日朝、木之沢村        現阿道因信士 六十一才 六之助
一、同月十日七ッ時、福山村   土葬  教覚道光信士 六十三才 甚 吉
一、同月十三日、石辻村         阿光道円信士 四十二才 長次郎
一、同月十七日、朝福嶋村        観秋道貞信士 六十三才 喜右衞門
一、同月廿二日七ツ時、大町村      永山了海信士 五十才  五右衞門
一、同月廿三日九ッ時、上安田村     高鑑泰順信士 六十三才 小 助
    小以十九人
 〆二十三人
土葬三人何 石碑如此銘同断
   荘内上福山村百姓甚吉墓
脇ニ法名教覚道光信士
是印旛沼古堀筋御普請御用御手伝人夫墓也
天保十四癸卯八月二日羽州庄内出て同閏
九月十日病死してこゝに葬る後の人
憐ミて是を発くことなかれ
 
〇二十三人之内、郷人夫十九人、就中かなしき有様也。予も過半死人を扱ヒしか、其内臨終ノ有様四、五人見しが、何レも眼ヲいからし、何となく残心之体面に顕レ、死後ニも眼ヲ不閉者有之、誠ニ愁傷言計もなし。因而、弘化二年ハ大三回忌ニ当りし、折しも同九月中添川村永鷲寺発願之事有之、大般若経真読せしか、予相願テ、十九人ノ亡霊ヲ供養セン為、大施餓鬼ヲ行フ。其趣十九人ノ家々江申通セシカトモ、供養ヲ拝セントテ参リ者壱人モナシ。予ハ供養中、日々、朝夕両度ッヽ出テ香ヲ焚花ヲ建テ霊ニ対ス
 

今度御取締之為、江戸・大阪御城最寄一円、御料所ニ 
成置一旨、被 仰出一候付、上地被 仰逹并飛地領地之義
ニ而も相触候趣も有之処、別段厚
思召も被在候付、右之義も御沙汰ニ不及候。以前之
領地知行所之通可成置旨、被仰渡
  但、上地ニ付、御金被下候向ハ、来辰年ゟ十ケ年賦
  上納可致候
右之通可相触
  閏月七日頃
 
        御勘定奉行 井上備前守
             名代 佐々木近江守
   思召有之御役御免被仰付
 右、於御右筆部屋縁頬老中列座大炊頭申渡、若
 年寄備座
   其方御役御免被成候付、御高之内弐百五拾石御召上
  逼塞
   卯閠九月七日
      御留主居番頭 御勘定吟味役  根本善左衛門
                 名代  石原孫助
  御思召有之付、御役御免。御普請入指控被仰付
右、於堀田摂津守宅渡之、大目付松原式部少輔相越