一、同月四日四ッ時、白山林村 秋山道道悟信士 四十二才 市郎兵衞
一、同月七日暮六ッ時、長沼村 永山了海信士 二十七才 寅 治
一、同月八日暮六ッ時、黒川村 昭誉道哲信士 六十才 彦 作
一、同月廿四日明方、大脇部村 土葬 観阿道晢信士 五十七才 仁兵衞
一、同月廿五日五ッ時、狩川通中島村 隨円阿光信士 二十六才 惣兵衞
一、同月廿六日朝、十日町村 嶺霜道極信士 十八才 弥 惣
一、同月廿八日夜九ッ時、広野新田村 実心道性信士 五十五才 清五郎
一、同月廿九日朝、平津新田村 即往道諦信士 四十八才 藤十郎
一、閏九月二日四ッ時、櫛引中島村 阿光道清信士 五十一才 茂左衛門
一、月日同 阿部奥や村 倩山道澄信士 四十一才 定 助
一、同月同日夜 平津新田村 凉盤道知信士 三十四才 源 七
一、同月七日六ッ時半、梳代村 土葬 恵勝道善信士 五十一才 彦左衞門
一、同月八日朝、木之沢村 現阿道因信士 六十一才 六之助
一、同月十日七ッ時、福山村 土葬 教覚道光信士 六十三才 甚 吉
一、同月十三日、石辻村 阿光道円信士 四十二才 長次郎
一、同月十七日、朝福嶋村 観秋道貞信士 六十三才 喜右衞門
一、同月廿二日七ツ時、大町村 永山了海信士 五十才 五右衞門
一、同月廿三日九ッ時、上安田村 高鑑泰順信士 六十三才 小 助
小以十九人
〆二十三人
土葬三人何 石碑如此銘同断
荘内上福山村百姓甚吉墓
脇ニ法名教覚道光信士
是印旛沼古堀筋御普請御用御手伝人夫墓也
天保十四癸卯八月二日羽州庄内出て同閏
九月十日病死してこゝに葬る後の人
憐ミて是を発くことなかれ
〇二十三人之内、郷人夫十九人、就中かなしき有様也。予も過半死人を扱ヒしか、其内臨終ノ有様四、五人見しが、何レも眼ヲいからし、何となく残心之体面に顕レ、死後ニも眼ヲ不レ閉者有レ之、誠ニ愁傷言計もなし。因而、弘化二年ハ大三回忌ニ当りし、折しも同九月中添川村永鷲寺発願之事有レ之、大般若経真読せしか、予相願テ、十九人ノ亡霊ヲ供養セン為、大施餓鬼ヲ行フ。其趣十九人ノ家々江申通セシカトモ、供養ヲ拝セントテ参リ者壱人モナシ。予ハ供養中、日々、朝夕両度ッヽ出テ香ヲ焚花ヲ建テ霊ニ対ス
今度御取締之為、江戸・大阪御城最寄一円、御料所ニ
可レ被二成置一旨、被 二仰出一候付、上地被レ 仰逹并飛地領地之義
ニ而も相触候趣も有レ之処、別段厚
思召も被レ為レ在候付、右之義も御沙汰ニ不レ及候。以前之
領地知行所之通可レ被二成置一旨、被二仰渡一候
但、上地ニ付、御金被レ下候向ハ、来辰年ゟ十ケ年賦
上納可レ致候
右之通可レ被二相触一候
閏月七日頃
御勘定奉行 井上備前守
名代 佐々木近江守
思召有レ之御役御免被二仰付一候
右、於二御右筆部屋一縁頬老中列座大炊頭申渡、若
年寄備座
其方御役御免被レ成候付、御高之内弐百五拾石御召上
逼塞
卯閠九月七日
御留主居番頭 御勘定吟味役 根本善左衛門
名代 石原孫助
御思召有レ之付、御役御免。御普請入指控被二仰付一候
右、於二堀田摂津守宅一申二渡之一、大目付松原式部少輔相越