常世田長翠
(トコヨダチョウスイ)
常世田長翠(トコヨダチョウスイ 1753~1813)は酒田に蕉風である春秋派俳諧の大きな足跡を残した。現・千葉県匝嵯郡(そうさぐん)光町木戸に生れ、二十代初めに江戸に出て茶事・築庭・絵画などを学んだ。二十代半ばの頃、春秋庵加舎白雄(カヤシラオ 1738~1791)の門に入り本格的に俳諧の道に入った。長翠の俳句の才能は著しく寛政3年(1791)、長翠42歳の時、白雄の遺言により、三千人を誇る春秋庵二世の宗匠となった。が、大きな組織を束ねる力が長翠にはなく、また、生まれつきの漂泊性もあって、ほどなくして弟弟子の倉田葛三(クラタカッサン 1762~1818)に宗匠を譲り行脚の旅に出た。酒田に初めて訪れたのは寛政12年(1800)奥州を行御した時である。翌年享和元年(1801)再び酒田に来訪し翌年まで滞在した。この時、浄徳寺河道を主とする酒田俳人衆から、酒田永住の強い勧誘を受け、長翠は酒田に骨を埋めることを決心した。長翠は本間家第四世光道の庇護の許、芭蕉一丈草(ジョウソウ)一白雄と受け継がれたきた「寂び・撓り・細み」の蕉風俳諧の理念を酒田の地に中興しようとしたのである。酒田には多くの長翠の句が残っており、日和山公園には句碑が建っている。光丘文庫には酒田市指定文化財になっている『長翠句集 常世田長翠自筆本』が所蔵されている。なお、長翠の墓は浄徳寺にある。
高山彦九郎
(タカヤマヒコクロウ)
高山彦九郎(タカヤマヒコクロウ 1747~1793)は江戸時代後期の尊王論者。蒲生君平(ガモウクンペイ 1768~1813)・林子平(ハヤシシヘイ 1738~1793)らとともに「寛政の三奇人」と呼称される。彦九郎は上野国細谷村(現・群馬県太田市)に生を受けた。18歳の折、京都に遊学、三条大橋にて御所を伏拝して「草莽の臣高山正之」と連呼し道行く人々を驚かせたという。彦九郎は主に尊王思想に敬慕した。一時、帰郷した後、諸国行脚に出立。酒田には寛政2年(1790)8月8日に来遊し蕨岡(わらびおか)から鳥海山登山を試みている。九州行脚中、尊王により幕吏の追及を受け、寛政5年(1793)6月27日、久留米にて自刃した。高山彦九郎の『北行日記』には酒田の風景として日和山や下山王社の様子が描かれている。『北行日記』を刻んだ高山彦九郎の碑が下の日枝神社境内に建っている。
河村瑞賢
(カワムラズイケン)
河村瑞賢(カワムラズイケン 1618~1699)により江戸に出羽国幕府領の大量の城米を安全かつ速やかに運ぶ航路として西廻りの海運航路が整備された。瑞賢は三重県伊勢に生れ名は政道、通称十右衛門、平太夫、号を瑞賢と呼んだ。貧農から身を起こし土木、建築を請負い、特に淀川、安治川の治水工事には多くの功績を残している。西廻り航路は日本海海運ルートで、酒田湊などを起点に出帆し、日本海沿岸西南に走り、赤間関(下関)から瀬戸内海に入り尾道などを経て兵庫・大阪に行き、さらに紀伊半島を遠回りして下田または浦賀を経て江戸まで行くルートである。この西廻り海運により北前船(商業船)交易が盛んに行われ酒田湊に未曽有の繁栄をもたらした。また、瑞賢は天領米を保管する場所として日和山に御公儀御米置場を設置した。御米置場の普請は庄内藩が行い、2人の浦役人をおいた。日和山公園内には河村瑞賢の銅像および瑞賢が指導して作った米置場(瑞賢蔵)石碑が建っている。(参考文献 酒田市教育委員会編 『ジュニア版酒田の歴史』)
伊東玄順不玉
(イトウゲンジュンフギョク)
伊東不玉(イトウフギョク 1648~1697)は医師で俳人。不玉は寛文10年(1670)京都に上り医学を修め、酒田で施療を行った。また、元禄2年(1689)、松尾芭蕉が酒田を訪れた際の宿を務め、芭蕉と親交を深めた。不玉は往時の酒田俳諧の重鎮であった。酒田市中町一丁目には「不玉宅跡」と記された石碑が建っている。
小寺信正
(コデラノブマサ)
小寺信正(コデラノブマサ 1682~1754)は歴史家。信正は庄内藩士の子弟に生れ、藩主酒井忠真(サカイタダザネ 1671~1731)の小姓となり元禄7年(1694)13歳のとき江戸に上った。一旦、帰参し、再び江戸に出て松崎観海(マツザキカンカイ 1725~1776)らの許で儒学を学んだ。帰国後は酒田・亀ケ崎に勤務し、酒田居住の最上浪人・伊東藤内に砲術を学び軍制・兵法を研究している。また庄内の歴史を深く研究し『庄内物語・荘内記』『志塵通』などの本を著している。写真は志村伊豆事蹟や大梵寺の城、尾浦城、東禅寺城など織田・豊臣時代の庄内二郡(遊佐郡・櫛引郡)の歴史を詳細に記した『庄内物語・荘内記』。
橘南谿
(タチバナナンケイ)
橘南谿(タチバナナンケイ 1753~1805)江戸時代の儒医・紀行家。南谿は伊勢久居藩士の五男として生まれ、明和8年(1771)、京都に出て医学を修めた。また、南谿は天明年間に薬草採集のため弟子の養軒を伴って関東・関西を旅行し諸国の奇事・珍物・勝景・畸人等を采録した『東遊記』『西遊記』を書いた。『東遊記』によると酒田には天明4年(1784)3月21日に来て、翌22日早朝出発し、海岸線を通り吹浦を経て秋田へと向かった。写真は『東遊記』から抜粋。
堀季雄
(ホリトキカツ)
堀季雄(ホリトキカツ 1734~1786)は庄内藩中・老堀彦太夫の三男として生まれた。5歳で文学を知り、10歳で平家物語を暗誦し、15歳のときには漢籍に通じて漢詩を作ったと言われる。宝暦3年(1753)藩主・忠寄(タダヨリ)の奥小性として召し出されたのを皮切りに、書院目付、郡奉行、鶴岡町奉行、酒田町奉行など藩の重役を歴任。天明6年(1786)江戸留守役に任じられ赴任後、まもなく江戸で客死した。堀季雄は『承露盤』『百巻史』『日の技折』など多数の本を著している。写真は江戸時代中期の庄内藩の行政資料である「公義御用留」や庄内松山藩主・酒井忠休(タダヨシ)の聞書などを記した「耳目抄」等々が載っている『承露盤』。
本間光丘
(ホンマミツオカ)
本間光丘(ホンマミツオカ 1733~1801)は本間家2代光寿(ミツトシ)の三男として享保17年(1733)に生まれた。幼少の頃、羽黒派修験覚寿院賢秀(カクジュインケンシュウ 1715~1778)について歴史を学び、寛延3年(1750)19歳の時、本間家と取引関係にあった姫路の奈良屋権兵衛の許で商売を学んだ。宝暦4年(1754)父・光寿が亡くなったことにより家督を継ぎ、大名貸や米券などで莫大な利益をあげた。庄内藩の財政再建、飢饉に備えた備荒籾の制度、植林事業、神社仏閣への寄進などを行い政治的・経済的・社会的貢献度も高い。光丘は本間家の中興の祖と言われ、酒田の歴史的な顔となっている。大正13年(1924)には庄内の有志によって光丘神社が建立されている。なお、海晏寺(曹洞宗)には光丘の木像が安置されている。墓石の写真は正徳寺(曹洞宗)内にある覚寿院賢秀のものである
仏頂禅師
(ブツチョウゼンジ)
仏頂(ブッチョウ 1641~1715)は臨済宗の禅僧。芭蕉の禅の師匠である。松尾芭蕉(マツオバショウ 1644~1694)は深川の芭蕉庵に居を構えた際、近所にある臨川庵に仏頂を尋ねた。芭蕉は仏頂に参禅し臨済禅に精進した。参禅した期間は37歳から41歳までの4年間である。本間美術館に仏頂の遺偈(ゆいげ)がある。遺偈には以下のように記されている。「大衆大衆 山僧は即今落命するも 常に信願有り直に筆を下す 看よ看よ 向後信心修行の人有りて 若火災を避けんと欲せば 我来て必ず其の難を救わん 火災を遁れんと欲せば 我来て其の災を救わん 若又 無信心の輩に於いて 火難を避けんと欲せば 我必ず来て火中に擲下せん 火災を避けんと欲せば 必ず来て水中に投下し去らん 喝 佛頂 花押」。この遺偈は天明5年(1785)美濃派3世、獅子門江戸白山下の俳匠、玄武坊が酒田に来た時、持ってきたものとされる。
阿部千萬太
(アベチマタ)
阿部千萬太(アベチマタ 1821~1868)は亀ケ崎城付足軽阿部家に生まれた。若い頃、酒田の佐藤三弥記について学問と剣術を学んだ。天保13年(1842)22歳の時、江戸に上って東条一堂に入門、かたわら国学を修めて多くの勤王の志士と交わった。安政元年(1854)関東・奥羽・の海辺を回って蝦夷地に至り、地勢・海防の実態を調査して幕府に国防についての上書を起草している。慶応4年(1868)3月、酒田に帰参した。戊辰戦争では一番大隊に加わり出陣。新庄より秋田方面に進撃して追分村で捕えられた。参謀桂太郎の尋問を受け、千萬太は天下の体勢を説いて戦争終結を訴えたが、8月14日庄内兵の攻撃で官軍退却の際、一官兵によって斬首された。享年48歳であった。(参考・引用文献 庄内人名辞典刊行会編 『庄内人名辞典』)
佐藤政養
(サトウマサヨシ)
佐藤政養(サトウマサヨシ 1821~1877)は遊佐升川村に生まれた。農業の傍ら大井組大組頭・真嶋佐藤治に師事し学問や彫刻を学んだ。学問に優れていた政養は弘化元年(1844)藩より選ばれて江戸に登り松平播磨守の家臣広木貫助に入門して砲術を修める。のち、勝海舟の門に入り、蘭学を学び安政4年(1857)海舟に従い海軍伝習生として長崎に赴きフルベッキについて測量および軍艦操縦の技術を習得した。安政6年(1859)には幕府より軍艦操縦所蘭書翻訳方を命じられた。文久2年(1862)大阪台場詰鉄砲奉行、元治元年(1864)将軍・家持の軍艦による大阪港巡視供奉に就任。また、幕府閣僚に横浜の開港を進言した。明治維新後には民部省出仕鉄道助に任じられ東京・横浜の鉄道敷設のために尽力した。明治5年(1872)12月鉄道工事完成に至り明治天皇から軍扇を賜っている。(引用文献 庄内人名辞典刊行会編 庄内人名辞典)
鉄門海上人
(テツモンカイショウニン)
鉄門海(テツモンカイ 1758~1829)は湯殿山の一世行者。鉄門海は安永7年(1778)21歳の時、殺人の罪を犯して出家。湯殿山に参籠し、霊能を得て施療を行った。また、加茂坂を開削するなどの公共事業にも尽力した。眼病が流行した際、それを防ぐために自分自身の片眼を切りぬいて竜神に祈祷したと伝えられる。晩年は酒田海向寺に住し民衆の教化にあたった。鉄門海は海向寺にて亡くなり田川郡大網の注連寺でミイラにされ即身仏となった。現在、鉄門海の即身仏は注連寺に安置されている。庄内各地には鉄門海の石碑が多く見られる。
清河八郎
(キヨカワハチロウ)
清河八郎(キヨカワハチロウ 1830~1863)は田川郡清川村の酒造家・齋藤治兵衛の長男として生まれ幼名を元司といった。14歳の時、清川関所の役人をしていた畑田安右衛門から漢籍を、17歳の時、酒田の伊藤弥藤治から剣術を学んだ。八郎は18歳の時に上府。東条一堂の門に入り古学を学んだ。この時、八郎は上方を遊歴している。一度帰郷したのち再び上府し東条塾に再度入塾し新たに北辰一刀流千葉周作の門をたたいた。またこのころ京都・長崎・蝦夷等々を遊歴して見聞を広めた。ほどなく八郎は経学・文章指南を掲げ江戸神田に開塾。万延元年(1860)に起きた桜田門外の変を契機に八郎は幕臣山岡鉄舟らとともに尊王攘夷を唱える「虎尾の会」(こびのかい)を結成した。後に浪士組を結成したが、佐幕派の近藤勇、土方歳三らと対立、文久3年(1863)八郎は浪士組を率いて攘夷を遂行するため江戸に下ったが幕吏・佐々木只三郎らの手によって暗殺された。享年34歳であった。庄内町にある清河八郎記念館には八郎の肖像画や銅像、八郎が母と共に伊勢参りに行った時の様子を記録した八郎直筆の書籍『西遊草』など多数の清河八郎史料が保存されている。記念館に隣接して清河神社がある。
本間郡兵衛
(ホンマグンベイ)
本間郡兵衛(1822~1868)は洋学者。郡兵衛は酒田の豪商本間家の分家本間信四郎の次男に生まれた。幼少のころから学問を好み殊に漢籍に精通していた。一時、矢島藩士・小番郡八(コヅカグンハチ)の養子となるも離縁。天保10年(1839)江戸に上り坪井信道らについて蘭学を修めるとともに葛飾北斎から絵を習う。安政2年(1855)には勝海舟に請われて勝塾の蘭学教師になった。安政6年(1859)オランダ人のフルベッキについて英語を習得した。文久2年(1862)欧米や清国等を巡遊した。元治元年(1864)、鹿児島開成所の教師を命じられる。郡兵衛は文久2年の洋行で、西洋諸国の経済発展とその経済侵略が東洋に向いていることを察知し、このままでは日本は外国資本にやられると考え、株式会社を作り、巨大産業を起こすことが急務と考えた。そこで、郡兵衛は日本発の株式会社である「薩州商社草案」をまとめ薩摩藩家老・小松帯刀(コマツタテワキ)に上申した。帯刀もこれに共鳴している。慶応2年(1866)郡兵衛は酒田に帰郷する。その目的は薩州商社への酒田本間家の参加及び本間家から資金の援助を請うためであった。戊辰戦争直前で緊張していた庄内藩では、郡兵衛を薩摩のスパイと疑い、外出を禁止するとともに、足軽目付に厳しく監視させた。薩摩藩から拝領した門付羽織を着用したということで鶴岡の親類・池田六兵衛に幽閉された。そして、明治元年(1868)藩医が置いていった薬を飲んで急死したのである。毒殺であった。時に郡兵衛47歳である。写真は群兵衛の描いた画。
夏静
(カセイ)
夏静(カセイ 1818~1892)妙法寺住職。越後出身で姓を宝という。明治の初期、酒田に来て妙法寺第22世住職となる。夏静は常世田長翆の流れを汲む春秋派の宗匠として酒田俳壇で活躍した。日和山公園内には夏静の詠んだ「よそごとに時の鐘きく月夜かな」と刻まれた石碑(写真)が建っている。
伊藤鳳山
(イトウホウザン)
伊藤鳳山(イトウホウザン 1806~1870)は儒学者で酒田本町の医師・伊藤維恭の子として生まれた。幼少のころ父を失い、生活が困窮し、父の友人である町医・須階玄益に引き取られた。江戸に上り儒学者・朝川善庵に入門、一時、善庵の養子となった。藩政家・渡辺崋山の推挙により、三河田原藩に召し抱えられて書を講じた。天保11年(1840)京都に行き塾を開いた。安政5年(1858)酒田に戻り開塾。文久元年(1861)再び江戸に登ぼり、元治元年(1864)には田原藩に召し抱えられ同地に骨を埋めた。田原では渡邊崋山・鈴木春山とならび田原三山と称されている。写真は伊藤鳳山が著した中国春秋時代(紀元前770年)の武将・孫武の『孫子の兵法』などを詳細に記した『孫子詳解』(【酒田市指定文化財】)。(参考引用文献・庄内人名辞典刊行会編『庄内人名辞典』)
白崎五右衛門一実
(シラサキゴウエモンカズザネ)
白崎五右衛門一実(シラサキゴウエモンカズザネ 1797~1850)酒田の消防施設の礎を築いた白崎五右衛門一恭(1764~1818)の長男として生まれた。幼い時から鵜渡川原の青原寺に預けられ金龍和尚(キンリュウ 1770~1819)の英才教育を受けた。15歳になると米沢興譲館に入り神保蘭室(ジンボランシツ 1743~1826)に学び漢学を修めた。天保2年(1881)酒田町医修業引立掛、同3年には町用金受払方になった。天保4年(1833)には医師・佐藤蒿庵(サトウコウアン 1791~1866)に相談をし町奉行に御町医会所設立を願い出て本町6丁目の蒿庵宅(市立酒田看護専門学校)に、医会所十全堂を創立した。この時、一実は50両寄附している。十全堂という名前は一実が江戸の儒者・朝川善庵(アサカワゼンアン 1781~1849)に頼んでつけてもらったもので、『周礼』の「天官・医師」に「十全を上となし、十に一を失えばこれに次ぐ」とあり、十に一つのまちがいも許されない医師業の厳しさをのべてあるところからとったものである。また同4年の大凶作の時、本間光暉と協力して貧民の救済に力を尽くしている。天保11年(1840)藩主酒井忠器(サカイタダカタ 1787~1854)の転封阻止事件の際には佐藤藤佐(サトウトウスケ 1775~1848)や本間光睴らとともに庄内へ入部予定の川越藩に入り松平家の動向を探った。一実は私利私欲なく藩や社会のために一身を投げうった稀有な素封家である。
本間光道
(ホンマコウドウ)
本間光道(ホンマコウドウ 1757~1887)は本間光丘の長男で本間家4代宗家である。光道は文化5年(1808)船場町に新問屋を開いて本間船を建造し蝦夷地(北海道)商交易を活発化し、また津軽藩、南部藩との交易に努めた。また、光道は学問を好み経史・国学・俳諧をよくし、娘婿を水戸に派遣して本の収集にあたらせた。現在、光丘文庫に所蔵されている本間家寄贈本の国書は概ね光道が集めた書籍である。俳諧は漂白の俳人・常世田長翆(トコヨダチョウスイ)に師事し「美都里」という俳名で多くの俳句を残している。また、冬期失業救済事業として今の本間美術館内にある「鶴舞園」(かくぶえん)と「清遠閣」(せいえんかく)を作った。本間光道は稀に見る学者商人であった。
橘周存
(タチバナシュウソン)
橘周存(タチバナシュウソン 1864~1931)は盲人教育者。周存は真宗大谷派雲照寺橘了周の次男として生まれる。4歳の時に目が不自由となる。医師の時岡淳徳に就き医術と鍼・按摩を習得し、明治19年(1886)、22歳で施療にあたる。そのかたわら、盲人のために私財を投じて家塾を開き点字などを教授した。昭和4年(1929)3月11日、財団法人光丘文庫の附帯事業として、盲人学徳の向上並びに点字の普及を図ることを目的に点字読書会が設立された。周存は点字読書会の顧問に就任し盲人教育に尽力した。周存の徳を称え門下生が真宗大谷派安祥寺境内に寿碑を建立した。