荒木彦助
(アラキヒコスケ)
荒木彦助(アラキヒコスケ 1890~1946)は酒田下内匠町の富豪荒木彦助の長男として生まれた。本名は彦太郎。京都帝国大学に入学するものの中途退学。学生時代より剣道に励み自宅に荒木道場を作る。酒田米穀取引所仲買人となって活躍。本間光丘を祀る光丘神社を創建するにあたり中心的役割を果たした。初代財団法人光丘文庫長(大正12年~昭和3年)を務める。川柳の井上険花坊と親交を結び自身も川柳を愛好し多くの川柳を詠んだ。(参考引用文献・庄内人名辞典刊行会編『庄内人名辞典』)
金森徳次郎
(カナモリトクジロウ)
金森徳次郎(カナモリトクジロウ 1886~1959)は大正・昭和時代の官僚、憲法学者。徳次郎は名古屋出身で明治45年(1912)東京帝国大学法学部を卒業。大蔵省を経て内閣法制局に入り、本務の傍ら諸大学において憲法の講義をした。戦後は第一次吉田内閣において国務大臣に就任。第90回帝国議会では新憲法草案に関する政府側の答弁を一手に引き受け、新憲法成立に大きく貢献した。昭和23年(1948)国立国会図書館館長に就任、その在任期間は11年間であった。酒田に来たのは昭和29年(1954)である。この折、徳次郎は光丘文庫にて「読書人日新」(書ヲ読ム人ハ日新タナリ)の書を残している。(参考引用文献 吉川弘文館 『国史大辞典3』)
竹久夢二
(タケヒサユメジ)
竹久夢二(タケヒサユメジ 1884~1934)は明治期大正期の叙情画家。夢二が初めて酒田にやってきたのは大正10年(1921)、夢二36歳の時である。頒布会を催すのがその目的であった。夢二は岡山県邑久郡本庄村の醸造業の家に生まれた。明治34年(1901)、上京して早稲田実業学校に入り、在学中より雑誌『中学世界』などに駒絵を投稿。早稲田実業を四年で中退。明治42年(1909)竹久夢二作品集「春の巻」を出版した。大正3年(1914)には東京日本橋に自作の版画・装身具などの店「港屋」を開いた。昭和6年(1931)欧米に遊学し帰国後、胸を病んで没した。夢二の描く美人画は往時の青年子女にもてはやされた。二度目の酒田訪問は大正11年(1922)3月中旬の頃である。この時は宇八楼(現・山王くらぶ)の茶室に泊まった。翌日は夢二の世話役をしていた本町の大地主・森重治、宇八楼の主人、それに藝妓などを伴って象潟に遊んだ。夢二は酒田の女性を好んだと言われる。酒田には夢二の描いた美人画が多く残されている。写真は、大正10年(1921)2月に鶴岡の湯田川温泉の御殿旅館で撮影されたもので、左から森重治(本町4丁目の地主)、夢二、於常(御殿旅館の長女)、後藤助太郎(大工町の呉服商)。建物は山王くらぶ正面と茶室。(参考引用文献 河出書房新社『日本歴史大辞典』)
東宮殿下行啓
(トウグウデンカギョウケイ)
東宮殿下(昭和天皇)が光丘文庫を訪れたのは大正14年(1925)10月14日の午後2時5分である。荒木彦助文庫長が光丘文庫の陳列品を説明。東宮は頷きながら熱心に荒木文庫長の説明に聞きいっていたという。この時の陳列品は太刀を始め酒田台臨の際の明治天皇関係資料、本間光丘史料など70点である。光丘文庫から献上品として光丘文庫概況書、台覧品目録及解説書、光丘文庫写真が贈られた。東宮24歳の秋のことである。東宮殿下はこの時、「廣き野を ながれゆけども最上川 うみに入るまで 濁らざりけり」の歌を詠った。昭和3年(1928)10月その歌碑を日和山公園に建てる。入江為守侍従長の書。昭和5年(1930)宮内省の許可を得て東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の島崎赤太郎教授が作曲し、以降県民に親しまれ、現在、山形の県民歌となっている。写真は、昭和3年(1928)10月に日和山公園内に建てられた東宮御歌の歌碑および東宮が休息した文庫内貴賓室。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史年表改訂版』)