ヘレン・ケラー
(Helen Keller)
昭和23年(1948)9月ヘレン・ケラー(Helen Keller)が来日。全国各地を講演するなかで、9月20日に酒田に到着。カスター山形軍政部司令官、村山山形県知事、本間酒田市長などが出迎えた。その後本間美術館を訪れ、美術品や光丘文庫所蔵の点字本などを鑑賞した。翌日には琢成小学校で歓迎県民大会が開催され、3千人余りの聴衆が集まった。写真の左がヘレン・ケラー、右はトムソン秘書。ヘレン・ケラー(1880~1968)はアメリカの著述家・社会福祉活動家。幼いころの病気の影響で視力・聴力を失い、言葉も話せなくなる。しかし、家庭教師のアニー・サリバン(1866~1936)から指文字と言葉を教えられ、ラドクリフ大学を卒業。各地で講演し盲ろう者の教育・社会施設改善のための基金を集めた。昭和12年(1937)、同23年(1948)、同30年(1955)と三度来日している。(参考文献 酒田本の会『酒田市制50年』岩波書店辞典編集部『岩波世界人名大辞典』)
本間光正
(ホンマミツマサ)
本間光正(ホンマミツマサ 1901~1945)は本間家九代当主。大正10年(1921)、鶴岡中学校を卒業後、東京農業大学に学ぶ。昭和4年(1929)、父(本間家8代当主・光弥)の死に伴い家督を相続。父のあとを受けて、本立株式会社、信成合資会社の社長となり、その傍ら飽海郡耕地整理組合長、飽海農業会顧問などを務めた。昭和18年(1943)、応召して山形連隊区司令部員となったが病のため帰郷している。父の遺志を継ぎ自作農創設にも力を尽くした。(引用文献 庄内人名辞典刊行会編 『庄内人名辞典』)
石原莞爾
(イシワラカンジ)
石原莞爾(イシワラカンジ 1889~1949)は、鶴岡日和町に生まれる。大正7年(1918)陸軍大学校第30期卒業。軍務に励む一方で日蓮への信仰を深めた。同10年(1921)陸大兵学教官となり、翌11年から13年までドイツに留学してフリードリヒ大王とナポレオンの戦史を研究。昭和3年(1928)関東軍参謀を命ぜられ、同6年(1931)の満州事変の首謀者となり、翌7年の満州建国の中心的役割を担う。昭和12年(1937)参謀本部作戦部長、関東軍参謀副長となるが、日中戦争の拡大に反対して東條英機と対立する。同16年(1941)予備役編入となる。その後立命館大学教授となり、翌年辞して鶴岡に帰る。戦時中より日・満・華による東亜連盟を主導。戦史と日蓮の哲理を支柱として広く一般に思想的影響を与えた。終戦後の昭和21年(1946)飽海郡高瀬村(現遊佐町)西山に移住し、同志を指導して集団農場を拓く。翌22年極東国際軍事裁判酒田出張法廷に証人として出席した。写真2は石原の著書『世界最終戦論』(昭和15年立命館出版部発行)と『国防政治論』(昭和17年聖紀書房発行)。写真3は石原の蔵書Guyot,Raymond“Napoléon”(Paris,H.Floury,1921)。光丘文庫には石原莞爾が集めたナポレオン関係書籍などの蔵書等約2200点が所蔵されている。(参考文献『新編庄内人名辞典』)
齋藤信治
(サイトウシンジ)
齋藤信治(サイトウシンジ 1907~1977)は酒田出身の哲学者。酒田・下台町の料亭・藤助の長男として生まれた。昭和9年(1934)東北帝国大学法文学部を経て、昭和15年(1940)~昭和17年(1942)にかけて大川周明の進言によってカイロ大学に留学。昭和26年(1951)に北海道大学教授、以後、神戸大学、京都大学、中央大学、学習院大学などで哲学を講じた。主な著書は『砂漠的人間』『実存主義者の時局観』『哲学入門』『ソクラテスとキュルケゴール』等々、また、翻訳として『死に至る病』『不安の概念』『自殺について』などがある。光丘文庫には『カイロ通信』『自殺について』の生原稿が所蔵されている。
大川周明
(オオカワシュウメイ)
大川周明(1886~1957)は西荒瀬村藤塚元和里(現・酒田市)に医師大川周賢の長男として生まれた。旧制五高(熊本大学)から東京帝国大学インド哲学科を卒業。卒論はインド最大の仏教学者『龍樹研究序論』であった。大学卒業後は定職には就かず、日本古代の研究やインド独立運動に傾斜していく。第1次世界大戦前後における国際的変動の波を受けて老壮会を創設。ついで国家改造運動に取り組むべく北一輝らと猶存社を結成する。その綱領には「革命日本ノ建設」「民族解放運動」などの文言が記されている。早晩、北との意見の相違で猶存社は解散する。大正8年(1919)南満州鉄道株式会社に入社。東亜経済調査局に配属される。大正13年(1924)、「国民的理想ノ確立」「有色民族ノ解放」「世界ノ道義的統一」を標榜し行地社を創設した。昭和7年(1932)には5・15事件に連座した罪で禁固5年の刑に服した。昭和13年(1938)、大川は「東亜経済調査局付属研究所」別名大川塾を創り、全国から優秀な塾生を募集した。年齢は15歳~18歳、一学年20人程度で全寮制をとり、修学年限は2年とし、学費は無料であった。卒業後はアジア各国に派遣された。アメリカからは大川塾はスパイ養成機関と見られていた。大川塾は昭和20年(1945)日本の敗戦とともに幕を閉じた。第2次世界大戦後、大川は連合国側から「平和に対する罪」で逮捕されたものの、公判中、奇怪な行動をとり、精神鑑定を受け、結局、公判にかけられず、罪は問われなかった。大川はイスラム教を研究し『古蘭』を和訳している。また、『日本精神研究』『近世欧羅巴植民史』『日本ニ千六百年史』『米英東亜侵略史』『亜細亜建設者』『安楽門』ほか多数の著作を残している。光丘文庫には『コーラン』(原書)や『月心和尚笑巖集』等の経典など、大川周明の蔵書等約2300点が寄贈されており、それらを『大川周明旧蔵書目録』としてまとめ、だれでも閲覧できるようになっている。(参考引用文献 『国史大辞典』(吉川弘文館) 原田幸吉『大川周明博士の生涯』(大川周明顕彰会))
伊藤吉之助
(イトウキチノスケ)
伊藤吉之助(イトウキチノスケ 1885~1961)、酒田出身の哲学者。伊藤吉之助は荘内中学、旧制一髙、東京帝国大学哲学科に学んだ。東大の卒業論文は「カントを中心とした空間論」。東京帝国大学助手を経て大正9年(1920)から2年間、慶應義塾大学派遣留学生としてベルリン大学・ハンブルク大学などで新カント派のロゴスについて研究。帰国後、慶應義塾や東京帝大で助教授を勤めたのち、昭和5年(1930)、東京帝国大学哲学科教授となった。昭和20年(1945)、東大退官後は北海道大学、中央大学で教授として教鞭をとった。酒田の日和山公園の伊藤吉之助の歌碑には次のような伊藤の歌が刻まれている。「秋くれば いてはの空は 雲おもく くろつむ海の 浪高ならず」。伊藤吉之助は日本の哲学界に大きな足跡を残し昭和36年(1961)7月7日、76歳で没した。光丘文庫には伊藤が生前、保持していた書籍を「伊藤吉之助文庫」として所蔵している。