継尾集
(ツギオシュウ)
『継尾集』(つぎおしゅう)は芭蕉の『奥のほそ道』の旅で酒田の宿を務め た伊東不玉が、象潟ならび同地方の名所を詠んで多くの俳人の発句を集め、連句を添えて、一集に編んだもの。『継尾集』は上下二巻からなる。上巻には、羽黒の俳人・図司呂丸(ズシロガン)の序を巻頭に、「巻の一」に不玉の象潟を叙した文ならびに芭蕉を始め諸俳人の象潟の発句、「巻の二」には野盤子(ヤバンシ「支考」)の「象潟紀行」ならびに諸俳人の名所の発句を修めている。下巻には「巻の三」に芭蕉・不玉・曾良による「あつみ山」三吟をはじめ、支考・重行・呂丸の三吟、路通・不玉・呂丸・不徹・玉文・支考の六吟各歌仙、等々の句を修めている。『継尾集』に句を載せている俳人は酒田・鶴岡・最上・羽黒・尾花沢・天童などの出羽地方の人が多い。(引用文献・国文学研究資料館編『酒田市立光丘文庫俳書解題』)
葛の松原
(クズノマツバラ)
『葛の松原』(くずのまつばら)は芭蕉十哲の一人で美濃派の祖である各務支考(カガミシコウ 1665~1731)が著した俳論書。伊東不玉撰。
東国旅行談
(トウゴクリョコウダン)
東国旅行談
時期:江戸時代
作成年:天明7年
所蔵:酒田市立光丘文庫
『東国旅行談』は松井寿鶴斎(マツイジュガクサイ)が天明7年(1787)、松島見物に出かけその道すがら見聞したことを描いた本である。松井寿鶴斎については、武蔵野国生まれとしかわかっていない。松井寿鶴斎は風俗への関心が高く『東国旅行談』は民俗学的にも貴重な本となっている。酒田については山王祭礼・飛島の蛸・飯盛山・国風俗之五節句・暑中の雪・花紋燭・根曲竹・鳥海山・八幡宮之神事、等々が記されてある。松井寿鶴斎は酒田を以下のように書いている。「同国同所酒田という所は町なり海辺に山をひかへたり。其麓を町に建ならべ千門万戸いらかを斉しくして人睦ましく此所を船町と名づけて接州大阪より四国中国西国九州二島の商人船はみなここに着岸し東奥北陸の産物を交易して利潤の売買金銭の取引に市をなし町の繁花なかなか筆に尽がたし」。この記載により酒田が往時いかに弁財船(北前船)で繁栄していたかがわかる。
邊要分界図考
(ヘンヨウブンカイズコウ)
「邊要分界図考」は北方探検家で幕臣の近藤重蔵(1771~1821)が文化元年(1804)海坊のため幕府に献上した書物である。「邊要分界図考」は7巻附1巻からなり著者自身の探検調査資料の集大成である。その内容は東はカムチャツカから西はロシアに及ぶ。耶蘇会士やオランダ語の世界地誌や地図など78種の史料を参考にして、ベーリングやスパンベルグの探検成果を包括している。当時の我が国最高・最新の知識を盛り込んだ書物であった。アイヌやロシア人を写実的に描き、その傍らに解説を加える図は見る者を引きつける。(引用文献・国史大辞典、吉川弘文館発行)
春雨草紙
(ハルサメソウシ)
上田秋成(ウエダアキナリ 1734~1809)自筆の『春雨草紙』断簡は、『春雨物語』の現存する最初期の草稿と言われている。上田秋成は、江戸時代を代表する読本作者、歌人。代表作には35歳の時に書いた怪奇小説『雨月物語』や晩年に書いた江戸時代小説の最高傑作といわれる『春雨物語』などがある。『春雨草紙』断簡は、京都の西福寺向いに住んでいた磯谷家(いそがいけ)にあったもので、かつて秋成が住んでいた磯谷家別棟を修理した際、その壁の中から出てきたものである。明治40年頃、磯谷家が酒田の佐藤良次(サトウリョウジ 1871~1930 号、北溟・古夢)に譲り渡したと言う。佐藤良次は東京専門学校(早稲田大学の前身)在学中、京阪で上田秋成の事績を調査して『雨月物語』を初めて活字本として出版した。どのようにして『春雨草紙』断簡を手に入れたかは、作家・井伏鱒二著『“雨月物語”明治翻刻本・佐藤古夢のこと』に記されている。井伏と良次の息子・三郎、四郎とは友人関係にあった。三郎は郷土史家として活躍、四郎も文芸家として酒田の文化を牽引した。同著で井伏は次のように紹介している。『昭和16年、酒田に遊びに行った際、四郎氏から『春雨草紙』の「捨石丸」「天津をとめ」「血かたびら」「目ひとつの神」などの断簡を見せてもらった。四郎氏が言うには、良次氏が上田秋成のことを調べに京都に行った時、磯谷家の老主人が古襖の下貼に使用していた『春雨草紙』断簡を譲ってくれたという。磯谷家と良次氏の間で次のような掛け合いがあった。良次氏が口を開いた。「上田秋成のことを話して頂きに伺いました」「あんたはん、秋成はんのお書やしたものそないお好きどすか」家人が反問した。すかさず良次氏は言った。「はい、好きです。僕は一生、秋成の研究をするつもりです」 家人は良次氏の言葉に喜んで口を繋いだ。「この家の襖の下貼は秋成の反古を使っているが、もし経師屋に貼替へさしてくれるなら、その古い下貼をみんなくれてやる」 それで良次氏は貼替代を出して「春雨草紙」断簡を貰い受けたという。』 良次に西福寺を訪ねたら秋成研究の手がかりがつかめるかも知れないと助言した人物は文豪・高山樗牛(タカヤマチョギュウ 1871~1902)であった。二人は酒田琢成学校の同級生であった。『春雨草紙』断簡は84枚にわたり、その内訳は「血かたびら」17枚、「天津をとめ」12枚、「目ひとつの神」40枚、「捨石丸」4枚、「長者ながや」8枚、「茶神の物語」3枚。この『春雨物語』最初期の草稿の出現によって初めて執筆開始の時期や構想の変化の具体的な様相が知られるようになった。『春雨草紙』断簡は佐藤三郎に引き継がれ、同氏より平成5年に酒田市へ寄贈された。(参考文献 長島弘明著『秋成研究』(東京大学出版会))
時期:江戸後期
作成年:江戸後期(『春雨物語』文化5年(1808))
所蔵:酒田市立光丘文庫
血かたびら
性格が善柔な平城(ヘイセイ)天皇は、自身の側近と皇太弟(嵯峨天皇)を押す勢力との対立に懊悩する。早く譲位したいと思っているのだが、側近はそれを拒んでいる。怪異が続いたので、ようやく譲位をはたし奈良に居住することになる。復位をもくろむ側近は反乱を企てたものの、仲成(ナカナリ)は斬首、薬子(クスリコ)は自害、自らも剃髪した。(参考引用文献 長島弘明、池澤夏樹『上田秋成』(新潮社))
天津をとめ
仁明(ニンミョウ)帝の寵臣・良峰宗貞(ヨシミネノムネサダ)は、色好みの男だったが、これを軽薄として憎む人もあり、帝の死後朝廷から姿を消す。清水寺での小野小町との歌のやりとりがきっかけで、仁明皇太后に捜し出されて朝廷に戻り、後には僧正の位にまで登った。これは仏教を信仰したおかげではなく、単なる幸運だった。(参考引用文献 長島弘明、池澤夏樹『上田秋成』(新潮社))
目ひとつの神
戦国時代に、和歌修行を志す東国・相模の国の若者が、都に上がる途中、近江の老曽の森で野宿していると、一つ目の神や神人(かんびと)・修験(しゅげん)・僧・狐らの酒宴に出会う。若者も宴に呼び出され、都で師につくことの無用を諭され、空を飛んで東国へ向かう修験者に連れられて引き返す。(参考引用文献 長島弘明、池澤夏樹『上田秋成』(新潮社))
長者ながや
大阪は安堂寺町の南側に長者なが屋と評判の場所があった。その八軒の住民は、占いをする山伏、藪の医者、家にいたことのない一人住の者、お針婆、托鉢(たくはつ)をして回る尼親子、腕の悪い表具師、本家持ちの四十ばかりの女房、古紙回収の一人者などの面々であった。それら八軒の生活は楽ではなかったが、不思議と年の暮れになると上手い具合にお金の工面をするのであった。
保定記
(ホテイキ)
天保11年(1840)幕府が命じた三方領地替え(出羽鶴岡城主酒井忠器を越後長岡へ、長岡城主牧野忠雅を武蔵川越へ、川越城主松平斉典を鶴岡へ転封させる)への庄内で起きた反対一揆に関係する史料を書写した記録である。全四冊で、順に「御」「沙」「汰」「止」と各冊にあるのは、転封中止(「おすわり」)を意味している。書写した久松宗作(良翰)は、庄内藩の大庄屋である。大庄屋は村に住み、幕府・藩の命令を農民に伝え、百姓の訴え状も藩役人に示す役目を果たした。第一冊は幕府の命令が11月7日庄内に早馬で届き、百姓が相談して酒田大浜などで大集会を開く場面などが記されている。第二冊は翌年百姓代表が江戸幕府老中や仙台・会津・水戸の各大名に訴え状を差し出す内容、第三冊は大名たちへの百姓訴え状と百姓の日記類が収められている。第四冊は7月16日三方領地替え中止決定の使者が来たときの民衆の喜びの場面を図絵も入れて記している。(参考文献 若尾政希『百姓一揆』岩波新書、国立歴史民俗博物館『地鳴り・山鳴りー民衆のたたかい三〇〇年』)
印旛沼登道記・詰中・下道中日記
(ホテイキ)
天保14年(1843)7月7日、庄内藩の印旛沼工事人夫238人が金峰山(鶴岡市南部)などのお守りを持って印旛沼に出発した。この時の道中日記である。大庄屋久松宗作は村役人とともに人夫を引率し、清河→古口→清水→尾花沢→山形→上山→福島→鬼怒川→古河→印旛沼というルートで向かった。夏の暑さもあり病人も出たが、炊き出し役もつくり、山伏の茶屋では飴を食べ元気を盛り返して向かった。旅籠賃や食料は庄内藩が手形引き換えで支給した。歩行する人夫の腰には一尺(約30㎝)の木綿布を差して組ごとに歩いた。「詰中」は現地生活の日記だが、印旛沼に滞在中、沢庵漬やニシン、鯨、野菜をよく食べたほか、疲れをいやす酒も飲んだ。人夫用の食料は百川屋(人材派遣店)から運ばれた。10月2日庄内へ出発したが、下り道中ではさらに病人が多く、人馬で運搬して手当を急ぐ苦労も書き記されている。(参考文献 千葉市『天保期の印旛沼掘割普請』)
続保定記
(ショクホテイキ)
(画像内翻刻あり)
続保定記
時期:江戸時代
作成年:天保14年
作成者:久松宗作(良翰)
所蔵者(寄託):酒田市立光丘文庫
天保14年(1843)6月15日幕府は、千葉県印旛沼の水害対策と海岸防備のための水運確保を目的に、5大名に普請(土木工事)を命じた。その2番目の工事を行う庄内藩は、7月23日から約4か月間、江戸人夫を雇いながらも、庄内百姓が現地まで歩いて行き、厳しい条件下で人夫として働いた。大庄屋の久松宗作は庄内百姓の世話役として活躍し、任務終了後、帰郷して記録にまとめた。特に、土木用の器具(黒鍬・水車・モッコ等)や巧みな小屋囲いと作業に勢いをつける太鼓・ほら貝や旗・肩章など、江戸時代の貴重な土木技術を伝える史料である。また、江戸人夫の服装や入れ墨など当時の江戸風俗がわかる図絵が多い。最後にはこの土木工事を行った庄内藩の武士・百姓の病没者と現地でとむらった墓とが記され、この工事の過酷さを伝えている。この工事が約2年前に起きた三方領地替え一揆に対する幕府老中水野忠邦による庄内藩への報復であるという説もある。(参考文献 千葉市『天保期の印旛沼掘割普請』)
東講商人鑑
(アズマコウショウニンカガミ)
東講商人鑑
時期:江戸時代
作成年:安政2年
所蔵:酒田市立光丘文庫
『東講商人鑑』(あずまこうしょうにんかがみ)は安政2年(1855)、発起人・大城屋良助(江戸湯島天神表門通り)によって出版された。『東講商人鑑』は商人の名前や商売名を記し、商売の宣伝をしてお客の便利を図ろうとする「商人名鑑」である。掲載されている地域は次の通り。奥州・奥州仙台領・奥州会津領分・羽州久保田領分・越後国・野州之部・下総国・武州・中山道筋・甲州道中筋・東海道五十三次・山城国京都・大阪より四国金比羅山道中筋。「東講」とは「東」の商人の講中、いわゆる組織のことをいい、講に入っている商人同士がお互いに利用しあったものと思われる。
自荘内鶴岡至蝦夷地手塩 絵入道中記(写)
(ショウナイツルオカヨリエゾチテシオニイタル エイリドウチュウキ(ウツシ))
安政6年(1859)、幕府は庄内藩を含む7つの藩に蝦夷地の警備を命じた。庄内藩では蝦夷地西海岸のハママシケなどの地に藩士を送って警備を行い、文久元年(1861)からは移住民を募集し、開墾事業も行っている。しかし慶應4年(1868)に戊辰戦争が起こると藩では蝦夷地からの引き上げを決定し、8年の歳月をかけた蝦夷地経営が終わった。この道中記は作者は不明であるが、当時の藩士たちの行程がわかるとともに、途中の村や城下、青森や函館の繁栄した港町などが描かれている。
酒田十景
(サカタジュッケイ)
酒田十景
時期:江戸後期
作成年:文久3年
所蔵:公益財団法人本間美術館
『木版 酒田十景』は、文久年間(1861~1863)に本町の五十嵐仁左衛門が観光案内を目的として、酒田の名所を画家の五十嵐雲嶺(イガラシウンレイ 生没年不詳)に画かせたものである。木版印刷し販売したところ非常に好評だった。『酒田十景』には、春の「山王桜」、秋の「海向寺月」、冬の「鶴田口雪」といった四季の美しい風景、「本町通景」に見える豪商本間家、その他にも「日和山眺望」「妙法寺鐘」「新井田橋」「高野濱船」「谷地田稲荷」「山王社雨」といった酒田の名所が描かれており、それぞれの画には芭蕉・長翆・清風・公巌などの句や漢詩が添えてあり格調高いものになっている。『酒田十景』の版木十枚は本間美術館が所蔵している。
俳諧附合 伊東不玉筆
(ハイカイツケアワセ イトウフギョクヒツ)
伊東不玉(1648~1697)は医師・俳人。松尾芭蕉が元禄2年(1689)陰暦の6月に訪れた際、宿したのが不玉邸。不玉俳諧が、いつ行われたか定かではないが、句中に露丸の句が見える。露丸は元禄6年に京都で客死していることから、この句会が開かれたのは、元禄3年か元禄4年と推測できる。「不玉俳諧附合」には以下の12首が掲載されている。跡て見む秣の中のゆりのはな(不玉) あさきの色といへるかたひら(之夕) 朝日より武士のおとなのゆゆしくて(露丸) 月の亭をそ造りたりける(閑夕) 松か枝をすかせば霧の遠のきし(里子) 露をもしろやかつくさしかさ(松寿) 此仏いつくの浦に拝れん(不白) 盗人乗て流すうつほ木(不玉) 鴨鳴て鐙着なをす山蔭に(不撤) 雪にまたたく遠ふき里の火(白) 聟歸る夕の嵐梢ふく(不玉) いとど泣るるみよしのの月(白)【酒田市指定文化財】
三国通覧図説
(サンゴクツウランズセツ)
三国通覧図説
時期:江戸中期
作成年:天明6年
所蔵:酒田市立光丘文庫
「三国通覧図説」は林子平(ハヤシシヘイ 1738~1793)が著した軍事地理書。天明5年(1785)成稿し、翌6年に刊行された。この図説は日本に隣接する朝鮮、琉球、蝦夷地の三国を中心に描き、それに小笠原諸島の地図、さらに日本を加えた五図からなっている。林子平は国坊の観点からこれらの地域の地理や風俗についても詳細な説明を加えている。図説にはアイヌの姿を描いているが、注目すべきはマキリが酒田の産であるという事である。当時の酒田の包丁類は精度が高かった事を物語っている。(参考文献 吉川弘文館 『国史大辞典6』)
東遊雑記
(トウユウザッキ)
東遊雑記
時期:江戸中期
作成年:江戸中期
所蔵:酒田市立光丘文庫
『東遊雑記』は天明8年(1788)徳川幕府の巡見使に随行して東北地方から蝦夷地を視察した見聞を記した紀行文。著者はこの時、随行していた地理学者の古川古松軒(フルカワコショウケン 1726~1807)。『東遊雑記』は庶民の風俗(服装・食事・言語)や信仰、農具、物産にわたって生活状態を上方中国筋と比較しながら具体的に述べ、合理的見解をも示している。
本間家の蔵書印
(ホンマケノゾウショイン)
本間家には三つの蔵書印がある。「扶老医嗌導盲」(ふろういえきどうもう)「鳥甲印」「香炉院」がそれである。この三つの印は本間家四代・光道が娘婿の菅基(スゲモトイ 1780~1819)に作らせたものである。本間家から寄贈された光丘文庫の国書にはこの三つのいずれかの印が捺してある。
荘内本間宗久翁遺書
(ショウナイホンマソウキュウオウイショ)
『荘内本間宗久翁遺書』は本間宗久(ホンマソウキュウ 1717~1808)の米相場についての金言を早坂豊蔵らがまとめた書籍である。宗久は酒田の豪商本間家初代・原光(モトミツ)の5男として生まれた。本間家2代・光寿(ミツトシ)が病気がちのため実質、宗久が本間家の屋台骨を支えた。その際、宗久は大名貸しや米相場で多大な利益をもたらした。光寿が亡くなると光寿の長兄・光丘(ミツオカ)が家督をついだ。光丘は宗久の本間家の経営方針に異をとなえ、宗久を義絶する。その後、宗久は江戸に上り、米相場で巨額の富を築くのである。宗久はいつしか相場の神様と言われるようになった。『荘内本間宗久翁遺書』は相場の必勝術が記されてあるとされ、現在でも株を運用する人達に読まれているという。
松平武右衛門叢書
(マツダイラブエモンソウショ)
『松平武右衛門叢書』は庄内藩の家史編纂の総裁であった松平武右衛門が庄内藩中から古文書を提出させ藩士に書き写させたもの。『松平武右衛門叢書』は94部478冊からなる。庄内藩の歴史を知る好史料である。【酒田市指定文化財】
弘采録
(コウサイロク)
弘采録
時期:江戸後期
作成年:江戸後期
所蔵:酒田市立光丘文庫
『弘采録』(こうさいろく)139巻は鶴岡の文人・池田玄斎(イケダゲンサイ 1775~1852)によって書かれた。『弘采録』は玄斎が諸子百家から小説及び詩歌緒集に至るまで広く読破したものを抽出し、また、玄斎自身の随筆・詩歌及び書画等を広く採り収めたものである。さらに「玄斎伝」として評論を付け加ええている。『弘采録』には漢学、国学、蘭学、また、書画工人にいたる広い領域と数百人程にも及ぶ多彩な人物が登場する。玄斎は江戸や京都、長崎で学び、庄内に戻って来た学者や識者らと親交を結び情報を収集した。『弘采録』は中央の文化や庄内の文芸、歴史を知る貴重な資料となっている。(引用参考文献 佐々木金三箸『弘采録の世界』)【酒田市指定文化財】
病間雑抄
(ビョウカンザッショウ)
病間雑抄
時期:江戸後期
作成年:江戸後期
所蔵:酒田市立光丘文庫
『病間雑抄』(びょうかんざっしょう)74巻211冊は鶴岡の文人・池田玄斎(1775~1852)によって書かれた。池田玄斎は『病間雑抄』について「此書は十六年以前大患中に快き時は説郛の類読候て欝悶を排し、聊か抄書をせし故名にも負いせたり。元来遺忘の為にて、人に示すべき物にあらず」と、自分の心の内を人に伝えるためには書いていないと述べている。とはいえ『病間雑抄』は先に玄斎が記した『弘采録』と同じく中央の文化や庄内の文芸、歴史を知るうえにおいて貴重な史料となっている。【酒田市指定文化財】
伊東家文書
(イトウケモンジョ)
伊東家は寛文6年(1666)から明治に至るまで酒田内町組大庄屋を務めた家柄である。「伊東家文書」は6622点にも及ぶ。その内容は御用帳・水帳・船運史料・質地史料・戊辰戦争史料、等々である。「伊東家文書」は江戸時代の酒田を研究するうえで大変、貴重な史料となっている。
出羽庄内酒田風景
(デワショウナイサカタフウケイ)
五雲亭貞秀(1807~?)は幕末から明治初期にかけて活躍した歌川派の浮世絵師で、橋本玉蘭齋、歌川貞秀の名前でも知られている。新しい西洋文化でにぎわう横浜の様子を描いた「横浜絵」や、鳥瞰による風景画を描いて人気を博し、パリ万博にも出品した。この作品は幕末から明治初年にかけて日本国内を旅行したころ描いたものと思われる。また地理に関心を持ち、「大日本四神図」などの様々な地図を制作した。
東北遊日記
(トウホクユウニッキ)
『東北遊日記』は幕末の思想家にして勤王の志士である吉田松陰(1830~1859)が、嘉永4年(1851)の暮れ、松陰22歳の折、外国船がしきりに出没する北辺の地を見聞するために藩の許可を得ず東北遊歴の旅に出た際の日記である。庄内に入ったのは嘉永5年(1852)2月22日であった。下の日枝神社に隣接する小高い丘の上に『東北遊日記』を刻んだ石碑が建っている