本間氏別荘庭園写景古図
(ホンマシベッソウテイエンシャケイコズ)
本間家庭園鶴舞園(かくぶえん)は本間家4代・光道(1757~1826)が浜畑に貧民救済として文化10年(1813)に別荘を建てたのがその始まりである。庭園の設計は光道の俳諧の師・常世田長翠(トコヨダチョウスイ)(1753~1813)と言われている。
本間氏別荘庭園寫景古圖奉献記
※ 読み下し
昨秋畏くも 摂政宮殿下 山形秋田宮城の三県に行啓あらせ給ふや 山形県酒田なる本間氏の別荘に 親しく鶴駕を駐めさせ 御宿りあらせ給いける 其の庭園の風光如何に 大御心にかなはせ給いけむ 殿下にはいたく愛で興ぜさせ給いて 御親ら写真機を大御手にせさせ給いて 玉歩を移させ給ひきとなん洩れ承る 本年の御歌会始の御歌に 最上川の御詠あらせ給う 如何に御印象深くましまししかは 拝察し奉るだに畏しとも畏しや これ実に本間氏の至大なる光栄なるのみならず 荘内否 山形縣の風土に赫々たる光輝を添え 荘内の野の広く 最上川の長く 後代を照らし県民をして 感激忠誠の念勃々として更に湧きたたしめたり 抑えも此の庭園や 世の多くの富豪の娯楽の為に造れるとは全く類を異にし 窮民を救恤且つ労働の神聖なるを知らしめんが為 凶年に造らしめしなりと云う 積善の家による余慶ありと 本間氏の此の光栄に浴するそもそも故ありと謂うべし本図は 余が祖父利吉嘱せられて本間氏の事務を執れる際に得しもの 図中松の小きをみれば築造後程経ぬ頃のものなるべし 片片たる一小図に過ぎずと雖も 実に尊き心ちのせられて こたび之を表装し 謹み畏みて光丘神社に奉献し永く光丘文庫に蔵せしむと云(うん)爾(じ)仙台の青葉しげれる宿にて
大正拾五年六月壱日 従七位 中西利徳 謹みて記す
本間氏別荘庭園寫景古圖奉献記
※ 読み下し
昨秋畏くも 摂政宮殿下 山形秋田宮城の三県に行啓あらせ給ふや 山形県酒田なる本間氏の別荘に 親しく鶴駕を駐めさせ 御宿りあらせ給いける 其の庭園の風光如何に 大御心にかなはせ給いけむ 殿下にはいたく愛で興ぜさせ給いて 御親ら写真機を大御手にせさせ給いて 玉歩を移させ給ひきとなん洩れ承る 本年の御歌会始の御歌に 最上川の御詠あらせ給う 如何に御印象深くましまししかは 拝察し奉るだに畏しとも畏しや これ実に本間氏の至大なる光栄なるのみならず 荘内否 山形縣の風土に赫々たる光輝を添え 荘内の野の広く 最上川の長く 後代を照らし県民をして 感激忠誠の念勃々として更に湧きたたしめたり 抑えも此の庭園や 世の多くの富豪の娯楽の為に造れるとは全く類を異にし 窮民を救恤且つ労働の神聖なるを知らしめんが為 凶年に造らしめしなりと云う 積善の家による余慶ありと 本間氏の此の光栄に浴するそもそも故ありと謂うべし本図は 余が祖父利吉嘱せられて本間氏の事務を執れる際に得しもの 図中松の小きをみれば築造後程経ぬ頃のものなるべし 片片たる一小図に過ぎずと雖も 実に尊き心ちのせられて こたび之を表装し 謹み畏みて光丘神社に奉献し永く光丘文庫に蔵せしむと云(うん)爾(じ)仙台の青葉しげれる宿にて
大正拾五年六月壱日 従七位 中西利徳 謹みて記す
贈正五位本間四郎三郎光丘翁事歴
(ゾウショウゴイホンマシロウサブロウミツオカオウジレキ)
『贈正五位本間四郎三郎光丘翁事歴』は齋藤美澄(サイトウヨシズミ 1857~1915)によって書かれた。同事歴は九つの章からなり題名の如く本間光丘の経歴を著した本である。齋藤清澄は酒田本町の根上善治の二男として生まれ、後に神職・齋藤清澄の養子となった。国学・漢学に精通し、古事記、日本書記に造詣が深く明治13年(1880)7月、大和国大和神社の神職になった。奈良県知事の委嘱を受けて大和史料の編纂に尽力した。明治26年酒田に戻り吹浦大物忌神社宮司に就き、後に酒田日枝神社宮司を務める傍ら『飽海郡誌』の編纂に従事した。『贈正五位本間四郎三郎光丘翁事歴』は本間光丘を知る貴重な書籍である。
飽海郡誌
(アクミグンシ)
『飽海郡誌』(あくみぐんし)は郷土史家で上の日枝神社宮司の齋藤美澄(サイトウヨシズミ 1857~1915)によって書かれた。『飽海郡誌』は十巻からなる。その内訳は次の通り。「古代から近世までの通史」「庄内の風俗や自然」「酒田の各町」「松嶺」「平田」「八幡」「遊佐」。『飽海郡誌』に掲載されている史料が現在、不明なものもあり、体系的に酒田飽海地域の歴史を知る上においてこのうえない貴重な書籍となっている。
群像
(グンゾウ)
『群像』は樋口喜一を編集兼発行人として大正12年(1923)8月10日に群像社から発刊された。同人は荒木京之助・荒木乙呂・遠田一路風・五十嵐貞吉・岩堀みなと・伊藤酉水子・白旗彦一郎・高橋喜一郎・竹内唯一郎・米松久之助・米松久之助・渡辺雨窓・加密川信・浩蕩らである。『群像』は政治・経済・社会・文学など多岐にわたった総合誌であった。また、群像社からは『京之助句集』『唯一郎句集』などを出版している。昭和2年(1927)5月の21号で惜しまれつつ廃刊となった。(参考引用文献 酒田市編 『酒田市史下巻』)
酒田町営電気事業誌
(サカタチョウエイデンキジギョウシ)
『酒田町営電気事業誌』は、大正13(1924)年3月創業15周年記念として酒田町役場が発行した。明治39年10月に酒田町営で電気事業を行うことが町会で決議されたことからはじまり、同41年に第一発電所の操業開始、大正13年3月に第二発電所が日向村泥沢に竣工するまでの18年に渡る事業の記録である。当時の工事計画、財政、事業成績など、初期の電気事業の全容が理解できる貴重な資料である。
最上川御歌付 東宮台臨之処
(モガミガワオウタツキトウグウダイリンノトコロ)
大正14年(1925)、昭和天皇が東宮(とうぐう)摂政宮(せっしょうみや)の時、東北行啓の際に、日和山で読まれた御歌であり、翌大正15年1月、御歌会始の勅題「河水(かわみず)清(きよし)」にお出しになられた。昭和3年、入江為守侍従長が揮毫(きごう)したものである。なお、この歌は昭和4年(1929)10月の山形県教育会総会において御製「最上川」に曲譜を付し、本県県民歌とすることを決議、今村侍従官をとおして、県民歌とすることの了承を得た。なお、作曲は東京音楽学校(現東京藝術大学)教授、島崎赤太郎氏である。【酒田市指定文化財】
野村年先生遺稿
(ノムラトシセンセイイコウ)
野村年(ノムラトシ 1873~1923)は旧尾張藩出身で京都帝国大学を卒業し明治34年(1901)内務省に入り土木監督署技師となった。大正7年(1918)最上川改修事務所の主任として酒田に着任。最上川改修および酒田築港等に大きな功績を残した。大正12年(1923)欧米各国河川改修、築港工事等の視察の途上イタリア・ポンペイ郊外で自動車事故により殉職。51歳であった。『野村年先生遺稿』(白崎良弥箸)の上辞は酒田の人々にとって野村年の存在がいかに大きかったかを物語るものである。同本には野村年の写真や海外出張日誌、歌集などが収められている。