荘内博物学会研究録
(ショウナイハクブツガッカイケンキュウロク)
『荘内博物学会研究録』は昭和3年(1928)に財団法人光丘文庫の附帯事業として興された荘内博物学会の研究録。荘内博物学会は会長に光丘文庫長、副会長には酒田中学校校長・酒田高等女学校校長が就き、庄内地区の中学校。高等女学校と小学校の代表12名が幹事となって運営された。会員数は120名前後である。同会は庄内地域の自然界研究の中軸を成していた。『荘内博物学会研究録』には会員の研究成果が論文として発表されており、今日においても庄内自然科学の貴重な資料となっている。
昭和3年村会議決録報告諮問案答申綴込
(ショウワサンネンソンカイギケツロクホウコクシモンアントウシンツヅリコミ)
酒田町と鵜渡川原村(うどがわらむら)は新井田川を隔てて隣接していたことから生活圏も重なり、酒田町としては築港工事や市制施行を進めるためには鵜渡川原村との合併は不可欠なことであった。大正7年(1918)から合併交渉がはじまったが、当初は反対意見も多く具体的な動きにはならなかった。昭和3年(1928)になり酒田町・鵜渡川原村双方より6名の合併交渉委員を選任し、話し合いが進んだ。同年8月8日鵜渡川原村村会において酒田町との合併に関する議案が提出され可決した。翌日酒田町町会でも合併に関する議案が可決。昭和4年(1929)4月1日に酒田町・鵜渡川原村は合併した。(参考文献 酒田市議会事務局『酒田市議会史記述篇上巻』酒田市史編纂委員会編『酒田市史下巻』鵜渡川原村『昭和3年村会議決録報告諮問案答申綴込』)
村の雑誌
(ムラノザッシ)
昭和3年(1928)10月15日創刊の雑誌。農業に関する情報から町の政治情勢・教育・小説など様々な話題を掲載。創刊号は8ページで定価は10銭。昭和6年(1931)1月15日号の第26号で終刊。発行人は西荒瀬村の富樫広三。
昭和八年市制祝賀会関係綴
(ショウワハチネンシセイシュクガカイカンケイツヅリ)
昭和8年(1933)4月1日酒田市制施行。午前0時に山形自由新聞社が2発の花火をあげ、酒田市の誕生を祝った。当日は新聞社主催の旗行列や提灯行列が行われ、酒田市民歌「酒田行進曲」と「最上川小唄」が流れた。同年7月24日には市主催の祝賀会が開かれ、旗行列、懸賞仮装行列、祝賀花火大会などが開催された。写真は『昭和八年市制祝賀会関係綴』から懸賞仮装大会の順位。(参考文献 酒田市史編纂委員会編 『酒田市史改訂版下巻』)
酒田港誌
(サカタコウシ)
「酒田港誌」は573年から1933年までの酒田の出来事を編年体で書いた書籍である。同誌を見ることにより、酒田の歴史を詳細に知ることができる。
酒田を唄ふ
(サカタヲウタフ)
昭和6年(1931)「酒田音頭」のレコードがビクターレコードより発売される。広瀬充作詞、堀内敬三作曲、紫ゆかり振付。A面四家文子、B面市丸が歌った。昭和10年(1935)に発行された『酒田を唄ふ』では「酒田音頭」で歌われた風景の写真が歌詞とともに掲載され、酒田音頭の振り付けも写真入りで解説している。後半は「酒田おばこ節」「酒田港船方節」「廓小唄」「荘内酒田自慢節」「酒田いざやまき」「酒田甚句」の歌詞を収録。
骨の木
(ホネノキ)
『骨の木』は昭和10年(1935)8月から昭和18年(1943)1月まで刊行された文芸誌。発行人は佐藤三郎。同人は佐藤十弥・梅木米吉・鈴木泰助・佐藤三郎・佐藤四郎・藤井英冶・藤井俊治。『骨の木』は俳句・詞・随筆・小説などジャンルが掲載されており、往時の酒田文芸の中心的役割を果たした。
かられらる物語
(カラレラルモノガタリ)
『かられらる物語』は詩人でグラフィック・デザイナーの佐藤十弥(サトウトウヤ 1907~1980)が著した随筆集。5章に分けられ136篇からなる。日常を描いたエッセイは佐藤十弥の人柄が偲ばれる。
青句集
(アオクシュウ)
『青句集』は酒田在住の俳人・鈴木泰助(スズキタイスケ 1911~1946)の句集。『青句集』は以下の21のテーマに分類されている。梅・青貝・頰花・おくりもの・蝶のすたるぢあ・麦秋・雨に睡る淫婦・のちの日に・噴水舞妓・花鳥・歳寒録・夜霧の海峡・花中音楽・霧・秋三夜・乙女・青愁・拾遺集・花火・逝く春・卓上簿暮。なにげない日常生活の中に人間の深みを著した著者の世界観が横溢している。
文庫
(ブンコ)
財団法人光丘文庫創立十五周年記念の一環として昭和13年(1938)に設立された酒田文化協会の機関誌。編集発行人は光丘文庫長であり酒田文化協会会長の白崎良弥。酒田の歴史・芸能・民俗などをテーマに酒田の学識経験者が原稿を寄せ、極めてアカデミックな機関紙であった。昭和16年(1941)11月7日の第41号をもって廃刊となったが、昭和40年に創刊され、現在も続いている酒田市立図書館報「光丘」にその精神は受け継がれている。
七愚人飲酒之図
(シチグジンインシュノズ)
「七愚人飲酒之図」は七人の文芸者が、酒田の街に思いを馳せながら、酒田の銘酒に盃を挙げている様子を井伏鱒二が描いたものである。この図は井伏鱒二が酒田の郷土史家・佐藤三郎氏へ贈ったものである。井伏鱒二は昭和8年、文化講演会で酒田を訪れて以来、計6回、酒田を尋ねている。酒田来訪のわけは釣であったようだ。井伏は佐藤三郎氏、弟の四郎氏との縁が深かった。両氏の父・佐藤良次氏が収集した「雨月物語」の初版本や『春雨物語』の史料をわざわざ酒田に見にきたという。「七愚人飲酒之図」の7人とは小山祐士、亀井勝一郎、伊馬鵜平、大宰治、高田英之助、丸山進、井伏鱒二である。各々が酒田の酒を飲み感じ入ったことを井伏が文字にしている。最後に井伏が以下のように記している。「酒田銘酒亀楽飲む集り右七名昭和十五年八月十五日夜空に月あり大いに歓をつくす」。井伏鱒二はすこぶる酒田を気に入ったのである。
荘内農村通信
(ショウナイノウソンツウシン)
昭和22年(1947)12月1日『荘内農村通信』が荘内農村通信社より発行される。第一号にはその発刊の意図として次のように記している。「荘内の農人には荘内の農人としての体臭があり、荘内の作物には荘内の作物としての色がある。それが自然で、その環境によく即してこそ、真に完成の道が開け、明るい、世界への目が開けゆくのだと思ふ。さういふ農人を一人でも多く知りたく『荘内農村通信』はその橋になりたい」現在でも『農村通信』として続いており、地域農業の発展に貢献している。創刊号の発行兼編集者は丸藤政吉。写真は第一号の一面。
御巡幸録 昭和二十二年
(ゴジュンコウロク ショウワニジュウニネン)
昭和22年(1947)8月15日天皇陛下が酒田においでになる。東北御巡幸中の陛下は秋田から本楯駅に到着、本楯村村長や村民、児童生徒が出迎える。荒瀬郷指導農場、上田村役場を訪問された後、酒田市日和山公園で市民奉迎会に望まれる。参加した市民は県民歌「最上川」を唱和し、相馬治太郎市会議長の発声で万歳三唱する。そのあと西田川郡大泉村へ移動。鶴岡市酒井家にお泊りになる。(参考文献 山形県『御巡幸録昭和二十二年』酒田市史編纂委員会編『酒田市史年表改訂版』より)
公報さかた
(コウホウサカタ)
昭和24年(1949)5月15日「公報さかた」第1号を発刊する。当初のタイトルは「酒田市公報」だったがのちに「さかた」に変更された。公報発刊に際し当時の本間重三市長は次のように述べている。「市民の皆さんは市の議会はどんな条例を作り市の当局はどんな規則を設けて市政の運営をしているかを知っていただきますと同時に、皆さんの意見による施策も登載しまして御互に納得の出来る市政を施行せられることを念願し、会報発行の効果を期待するものであります。」第1号は同年4月28日に制定された条例と公示、議会、人事、衛生、教育などに関する事項があり、全12面。
ニッポン日記
(ニッポンニッキ)
太平洋戦争終結後、昭和20年(1945)10月9日から翌年2月25日までアメリカ進駐軍約100人が酒田に進駐していた。当時シカゴ・サン紙の特派員だったマーク・ゲイン(Mark Gayn 1909~1981)は終戦直後の日本の実情を報道するために同年12月5日に来日。約一年間滞在し、その体験を『ニッポン日記』としてアメリカで昭和23年(1948)に出版。昭和26年(1951)日本語訳が出版され、ベストセラーとなった。『ニッポン日記』によると酒田には12月24日に到着。翌日には本間家を訪問し、小作人との関係などについて取材している。このとき本間家では本間信吉、本間元也、本間祐介が対応した。28日進駐軍が本間家の蔵を捜索したときも同行した。その後東京で石原莞爾にも取材している。(参考文献 マーク・ゲイン『ニッポン日記』酒田本の会『酒田市制50年』)
てぶくろ
(テブクロ)
昭和31年(1956)4月五店会(中村呉服店、中村太助商店、中村イトヤ、小松屋、七桜カメラ店)でPR誌『てぶくろ』を発刊する。表紙に「私たちの暮しを美しく豊かにするために」とあるように、ファッション、映画、「みちのく銘菓めぐり」、写真撮影の方法、酒田の歴史話などの記事が掲載されている。編集者は佐藤十弥。隔月1回発行。同34年(1959)9月発行の21号で終了した。写真は『てぶくろ』第一号。
みちのく豆本
(ミチノクマメホン)
戦後、全国各地で豆本ブームがおこるなか、昭和32年(1957)8月酒田みちのく豆本の会から『みちのく豆本』が発行される。主催者は佐藤公太郎、装丁は佐藤十弥。第1号は池田順太『河村瑞賢考』だった。第1号についている「みちのく豆本たより その1」には発刊の由来が書かれている。それによると「私達が『みちのく豆本』の刊行を思いたったのは、当今の豆本流行に刺激されたこともあるが、酒田市史下巻(旧版)の纏(まと)めにかかっている昨今、その資料整理の過程で、貴重な統計や、散逸させるに忍びぬ文献等に出会う都度、何とかこれを保存する方法が無いかと思ったのが動機である。(後略)」『みちのく豆本』は郷土の歴史、詩集、句集、旅行記など多彩な作品がならんでいる。平成7年(1995)6月 第130冊記念号『終艸集(しゅうそうしゅう)』で惜しまれながら終刊した。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版下巻』)