昭和時代

更新酒田市街図

(コウシンサカタシガイズ)


更新酒田市街図

時期:昭和初期

作成年:昭和5年頃

所蔵:個人蔵

昭和5年は酒田町の時代である。酒田町の中心地を拡大して描いている。学校や小路名が記してあり、一目で町並が理解できる地図である。現在の総合文化センター前を「末広町」と表記しており、この名称は大正中期から戦後にかけて使われていた名称であるが、正式な町名ではない。

 


 

大日本職業別明細図 酒田港

(ダイニホンショクギョウベツメイサイズ サカタミナト)


大日本職業別明細図 酒田港

時期:昭和

作成年:昭和6年11月4日

所蔵:酒田市光丘文庫

戦前に現代の住宅地図にあたるものは発行されていなかったが、東京交通社では全国の主要都市の市街地の主な商店や事業所を掲載した地図を大正期から発行しており、これは昭和6年発行のもの。裏面に掲載されている商店には偏り(中村太助商店や梨屋の掲載がない)もあるものの、商店の位置を示す資料としては貴重なものである。

 


 

酒田市最新明細地図

(サカタシサイシンメイサイチズ)


酒田市最新明細地図

時期:昭和初期

作成年:昭和8年5月1日

所蔵:個人蔵

酒田市民が待望した市制施行を記念して、「東京日日新聞」の酒田専売所であった荘司新聞店(外野町)が発行した地図。鶴岡の市制が大正13年(1924)に施行されており、大正3年から市制施行を模索してきた酒田町としては記念すべき市制施行であった。なお、市制施行前の印刷物においては「酒田町」という表記をあえて避け、「酒田港(湊)」という表記を用いている例が多数みられる。この地図は当時の一般の地図としては珍しく、行政区域が明確に記されており、8年後に酒田市に合併することになる西荒瀬村酒井新田地区や中平田村浜田地区との境界線がはっきりと読み取れる。

 


 

観光案内パンフレット

(カンコウアンナイパンフレット)


観光案内パンフレット

時期:昭和初期

作成年:昭和9年1月1日

所蔵:個人蔵

縣社日枝神社・日和山公園・本間家別荘・光丘文庫・光ケ丘松林、等々の酒田の観光スポットが写真入りで説明されている。また、裏面には酒田市鳥瞰図が描かれており、待ちに待った市制施行に伴い、築港完成により酒田を売り込もうとする意気込みが感じられる資料である。

 


 

酒田市案内図

(サカタシアンナイズ)


酒田市案内図

時期:昭和

作成年:昭和9年5月20日

所蔵:酒田市立資料館

酒田の住宅地図の類としては現在確認されているものとして最も古いものであり、主な商店や施設名に加え、一部の一般住宅も掲載されている。商店等の位置についての情報自体が少ないことからも貴重な情報といえる。光ヶ丘にごく短期間存在した郡是製糸工場が掲載されているのも珍しい。なお、裏面には酒田商工案内が掲載されている。

 


 

酒田都市計画図

(サカタトシケイカクズ)


酒田都市計画図

時期:昭和

作成年:昭和12年5月頃

所蔵:個人蔵

昭和8年4月1日の市制施行に伴い、酒田市も都市計画法の対象となった。昭和10年12月には商業地域、工業地域、住宅地域と街路網の計画原案が完成、昭和11年3月に都市計画が正式に決定した。この地図の都市計画街路計画は昭和12年5月11日の官報(内務省告示第366号)に告示されている。この計画完成の2か月後には日中戦争が勃発したことにより、昭和12年9月1日の「酒田新聞」によると国の交付金が望めなくなったとあり、これらの計画が実現するには戦後相当の期間を要することになった。なお、旧都市計画法に基づく北千日堂前の区画整理事業の工事は昭和13年9月27日に起工式を行っている。

 


 

酒田市街図

(サカタシガイズ)


酒田市街図

時期:昭和初期

作成年:昭和14年頃

所蔵:個人蔵

「防諜」のスタンプは、日中戦争が泥沼化し、米英との戦争が近づいていることにより、国全体がスパイに地図等の国内情報が渡ることに神経をとがらせていた当時の世相を反映している。酒田の中心部は町内名まで詳細に記されてある。なお、従前は畑地であった北千日堂前が昭和13年(1938)に始まった区画整理事業により既に市街化されてきていることがわかる。

 


 

SAKATA,YAMAGATA PREFECTURE


SAKATA,YAMAGATA PREFECTURE

時期:昭和

作成年:昭和19年9月

所蔵:個人蔵

太平洋戦争が始まった昭和16年(1941)に軍事用地図を作成することを目的に米陸軍省内に設置された部門Army map Serviceが作成した地図で、15万分の1地形図(昭和11年 陸軍省陸地測量部)、2海図(明治31年)、3航空写真(昭和4年以前撮影)、4合衆国水路部(USHO) 灯台一覧(1944)、5鉄道省編纂汽車時間表(昭和16年)の情報をもとに作成されたもの。酒田市は昭和20年8月10日午前9時18分から約3時間に渡り、米海軍空母ベニントン、空母レキシントンの艦載機計27機による空襲を受け、港湾地区を中心に死者・行方不明者計30名、負傷者33名を出す被害を出しているが、米軍は日本の地方小都市の詳細も把握したうえで攻撃を実施していたことがわかる。なお、この地図には現在の松原南付近に弾薬庫が表示されているなど、国内で流通していた地図には表記のない機密情報も掲載されており興味深いほか、Army map Serviceが作成した酒田の地図だけでも3種類が確認されている。

 


 

全国主要都市戦災概況図附図第十六酒田市

(ゼンコクシュヨウトシセンサイガイキョウズフズダイジュウロクサカタシ)


全国主要都市戦災概況図附図
第十六酒田市

時期:昭和

作成年:昭和20年12月

所蔵:酒田市立光丘文庫

太平洋戦争中、酒田は二度の空襲を受ける。一度目は昭和20年(1945)6月30日午前零時半ごろ、酒田港一帯にアメリカ軍B29による機雷(船がぶつかると爆発する爆弾)投下が行われた。これが山形県初の空襲である。1ヶ月以上たった8月6日にこの機雷にふれた酒田港所属の浚渫船(しゅんせつせん)阿賀丸が爆沈。行方不明者2人、重傷者3人、軽傷6人の被害者がでた。二度目の空襲は8月10日午前9時半頃より午後0時5分までの間にアメリカ軍艦載機グラマンF6Fによる二回の空襲があった。主に港湾施設や工場地帯が襲撃され、酒田第一国民学校(旧琢成小学校)、山形造船所、酒田駅周辺、鉄興社大浜工場第三工場などが損壊または焼失し、死亡16名、行方不明14名、負傷者33名の被害があった。写真の地図は二度の空襲による被弾区域と焼失区域を示している。この地図は、昭和20(1945)年12月、戦災の概況を復員帰還者に知らせるために第一復員省資料課によって作成された「全国主要都市戦災概況図」の中の1枚。(参考文献 酒田本の会『酒田市制50年』酒田市教育委員会『ジュニア版酒田の歴史改訂版』)

 


 

酒田市街図

(サカタシガイズ)


酒田市街図

時期:昭和中期

作成年:昭和24年頃

所蔵:個人蔵

戦後まもない頃の市街図。昭和22年に学制が変わったことに伴い、新制中学、高校の名称が見られるほか、戦前には報恩会以外に存在しなかった福祉施設(保育園、母子寮、養老院)が見られるようになったことが戦後を表している。

 


 

酒田市街図

(サカタシガイズ)


酒田市街図

時期:昭和

作成年:昭和33年

所蔵:酒田市立光丘文庫

昭和29年(1954)酒田市は西荒瀬、新堀、広野、袖浦、東平田、北平田、中平田、上田、本楯、南遊佐の10ヶ村と合併し、人口9万3719人、面積171平方キロメートルの市になった。この地図は合併まもない新酒田市の市街地をあらわしており、公共施設、寺院、主な会社名なども掲載されている。

 


 

最新酒田市住宅明細図

(サイシンサカタシジュウタクメイサイズ)



 


 

酒田市住居表示実施区域案内図

(サカタシジュウキョヒョウジクイキアンナイズ)


酒田市住居表示実施区域案内図

時期:昭和中期

作成年:昭和39年

所蔵:酒田市立光丘文庫

昭和37年5月10日に施行された住居表示に関する法律に基づき、酒田市は昭和40年度から3か年をかけて市内の122の町名・地名を改めたことにより、江戸期から使われてきた歴史のある町名が公式の住所等には用いられなくなった。しかし、町名変更の実施から50年以上を経過した現在でも自治会の単位として多くの旧町名が残っており、これらの旧町名がいかに市民生活に浸透しているものであるかを示しているほか、酒田の歴史を物語る文化遺産であることを示す旧町名保存事業により昭和58年からは市教育委員会によって旧町名を表示する標柱が各町に設置された。