昭和時代

酒田町職業紹介所

(サカタマチショクギョウショウカイジョ)


酒田町職業紹介所 写真

時期:昭和

作成年:昭和8年

所蔵:酒田市立光丘文庫

大正9年(1920)3月頃より第一次世界大戦後の戦後恐慌がはじまり、全国で失業問題が深刻化する。その後も景気は思うように回復せず、酒田町でも失業者対策が求められたことから、昭和2年(1927)2月の町議会で酒田町職業紹介所の設置を決定。同年4月酒田町役場内に酒田町職業紹介所を設置した。写真は『昭和8年市制施行時酒田町写真集』より。(参考文献 酒田市史編纂委員会編 『酒田市史改訂版下巻』)

 


 

山形刑務所酒田出張所

(ヤマガタケイムショサカタシュッチョウジョ)


山形刑務所酒田出張所 写真

時期:昭和

作成年:昭和8年

所蔵:酒田市立光丘文庫

明治以降旧藩時代の酒田牢を監獄として使用していたが、明治42年(1909)光ヶ丘に山形監獄酒田分監を新築する。その後山形刑務所酒田支所、さらに山形刑務所酒田出張所と改称し、昭和3年(1928)に新町に拘置場、事務所、官舎などを新築移転した。写真は『昭和8年市制施行時酒田町写真集』より。(参考文献 酒田市史編纂委員会編 『酒田市史下巻』 酒田町役場『刑務所関係綴』)

 


 

新両羽橋

(シンリョウウバシ)


両羽橋 写真

時期:昭和

作成年:昭和11年9月23日

所蔵:酒田市立光丘文庫

明治27年(1894)に完成した初代両羽橋は、経年劣化が激しくなったのと交通量が増えたこともあり、新しい橋を付け替えることになった。昭和6年(1931)に着工した工事は同11年(1936)9月に竣工式を迎え、全長714メートルで当時は東北地方で最長の橋であった。この2代目両羽橋は、その上流側に昭和51年(1976)に架けられた3代目の両羽橋とともに、15年間に渡って北上(旧橋)・南下(新橋)専用として使用されてきたが、平成3年(1991)11月の新橋の4車線化完了に伴い旧橋は使用中止となる。その後も封鎖された旧橋は10年以上に渡って残され、平成16年から平成20年にかけて撤去工事が行われた。(参考文献 山形県土木課『両羽橋架換工事概要』)

 


 

酒田町役場

(サカタマチヤクバ)


酒田町役場 写真

時期:昭和

作成年:昭和初期

所蔵:酒田市立光丘文庫

昭和2年(1927)6月1日に酒田町役場が元飽海郡役所に移転して開庁した。大正12年(1923)4月に郡制廃止となり飽海郡役所が不要になったため、県からの払い下げを受けて移転したもの。新しい町役場は現在の市役所と同じ場所であり、同39年(1964)に新築されるまで行政の中心としての役割を果たした。写真は『写真でみる酒田市史 昭和~平成版』より。写真右上は本町四丁目(現荘内銀行酒田中央支店)にあった移転前の町役場。(参考文献 酒田市史編纂委員会編 『酒田市史改訂版下巻』)

 


 

琢成第一尋常小学校

(タクセイダイイチジンジョウショウガッコウ)


琢成第一尋常小学校新築移転
記念絵葉書

時期:昭和初期

作成年:昭和11年7月

所蔵:個人蔵

昭和11年(1936)7月琢成第一尋常小学校(現浜田小学校)の外野町から浜田への新築移転を記念して発行された絵葉書(3枚組のうちの1枚)。写真右側に写る講堂は平成15年(2003)の校舎新築まで残っていた。現浜田保育園側はまだ田んぼであったことがわかる。

 


 

亀ヶ崎尋常高等小学校

(カメガサキジンジョウコウトウショウガッコウ)


亀ヶ崎尋常高等小学校 写真

時期:昭和

所蔵:酒田市立光丘文庫

明治7年(1874)3月鵜渡川原村(うどがわらむら)の山内成善(ヤマウチセイゼン)宅に鵜川(うせん)学校が創設された。その後青原寺に分校を置き、5月には統一して青原学校と称した。同8年(1875)11月鳴鶴学校が亀ヶ崎城跡に移転し、青原学校の生徒もそこに通った。同12年(1879)鳴鶴学校が本町7丁目に新築移転し琢成学校となったあとは琢成支校となる。同15年(1882)鵜渡川原村戸沢町に新校舎ができ、翌年亀ケ崎学校と改称。その後同25年(1892)8月亀ケ崎尋常高等小学校と改称。現在の酒田市立亀ケ崎小学校の前身である。写真は『昭和8年市制施行時酒田町写真集』より。(参考文献 酒田市史編纂委員会編 『酒田市史改訂版下巻』)

 


 

酒田駅改築

(サカタエキカイチク)


酒田駅前通り 写真

時期:昭和

所蔵:個人蔵

酒田駅は大正3年(1914)陸羽西線の開通、大正13年(1924)の羽越線全線開通もあって駅舎が手狭になったほか、前年の市制施行に伴う新酒田市の玄関口にふさわしい駅舎として、改築の要望が行われていた。昭和8年(1933)12月25日から青森市の成文組による工事が始まり、翌年5月18日に改築工事が竣工し、同月26日に市公会堂で竣工式が行われた。総工費5万円のうち、酒田市では2万円を寄付している。この駅舎は昭和35年(1960)の改築までの26年間使用され、戦時中は多くの出征兵士を送り出したほか、昭和20年(1945)8月10日の空襲では爆撃や機銃掃射による攻撃を受けている。写真は駅前通りで、右側の建物は今町に本店を置く酒田ホテル(渡邉旅館)支店。(参考文献 酒田市議会事務局『酒田市議会史記述篇上巻』)

 


 

酒田市立酒田実科高等女学校

(サカタシリツサカタジッカコウトウジョガッコウ)


昭和15年(1940)4月、「家庭教育の根幹たる女子」に対する高等普通教育の充実のため、酒田市立実科高等女学校が琢成尋常高等小学校内(現酒田市総合文化センター敷地内)に創立された。本科2年100名、専攻科1年50名の修業年限及び生徒定員であった。授業は裁縫11、家事4、手芸2の各履修時間を内容とする家政科中心であった。同18年(1943)琢成高等女学校に改称。戦後は昭和23年(1948)酒田市立高等学校と改称。同41年(1966)4月北千日堂前松境(現酒田光陵高等学校敷地)に新築移転し酒田市立中央高等学校と改称。平成24年(2012)には県立酒田工業高等学校、県立酒田北高等学校、県立酒田商業高等学校とともに合併し、県立酒田光陵高等学校となる。写真は昭和15年4月23日(火)の酒田新聞と酒田市立高等学校時代の校門。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版下巻』)