中世

大信寺

(ダイシンジ)


大信寺

時期:中世

大信寺は真宗本願寺派(西本願寺)に所属する。大信寺の起源は以下の通りである。越後国蒲原郡新田村の武将・新田義宗(ニッタヨシムネ 1331~1368)の5代の孫の新田宗忠(ニッタムネタダ)が出家して浄泉防了玄と称し、最初に新潟に勝楽寺を建立し、ついで酒田に移転して浄園寺を建て、後に大信寺と改めた。大信寺の門徒は若狭・大江方面からの移住者が多く、そのため唐仁屋・叶屋・玉屋・加賀屋などの廻船問屋が多い。また、酒田沖で難破した際の死亡者は大信寺に葬ったという。酒田において真宗寺院の9割が真宗大谷派(東本願寺)であり本願寺派は1割に過ぎず大信寺は真宗本願寺派にとって重要な位置にある。

 


 

龍厳寺

(リュウゴンジ)


龍厳寺

時期:中世

龍厳寺(りゅうごんじ)はもとは法泉院と称した真言宗御室派に所属する。龍厳寺は集会所として経論を談議したことにより談議所と呼ばれていた。専ら神仏習合が行われていた江戸時代以前、酒田の守り神である産土神(うぶすなのかみ)が御富士権現であった頃、龍厳寺は神社を管理する寺として別当職を務めていた。龍厳寺の山号が酒田山というのは御富士権現別当職によるという。また、龍厳寺は亀ケ崎御城の御祈祷所であったため酒田寺院の筆頭を務めていた。

 


 

城輪柵跡

(キノワサクアト)


城輪柵跡 写真

所蔵:酒田市立光丘文庫

昭和6年(1931)5月6日本楯村から角材列の一部が発見され、同年春と秋の二回にわたり発掘が行われた。この場所に関しては、江戸時代に進藤重記が『出羽国風土略記』で「官人の居城があった」と推定していた。近代に入り郷土史家の阿部正巳(アベマサキ 1879~1946)は「出羽国国分寺跡」があるとする説を唱える。昭和6年4月考古学者の上田三平が城輪(きのわ)を視察し、文献上の「出羽柵」があらわれるのではないかと予想し、地元の人々に調査をすすめたことが発見に結び付いた。翌年国の史跡に指定された。遺跡は一辺720m、ほぼ正方位の四角形で面積52万㎡。遺跡中央部に政庁がある。戦後は昭和31年(1956)と同39年(1964)からの51次にわたる発掘調査が行われた。城輪柵跡は遺跡の規模や政庁建物の配置、出土した資料の年代などから平安時代の出羽国府跡とする考え方が定着しつつある。現在では政庁南門と東門及び筑地塀の一部を復元し、歴史公園となっている。【国指定史跡名勝天然記念物】(参考文献 酒田市教育委員会『ジュニア版酒田の歴史改訂版』)

 


 

海向寺

(カイコウジ)


砂髙山海向寺は湯殿山注連寺の末寺である。基本的には檀家はなく祈祷寺である。湯殿山の一世行人であった鉄門海(テツモンカイ 1758~1829)が当寺に住い、教化にあたり、ここで亡くなっている。また、境内には粟島水月観音堂がある。同観音堂におまつりしてある石は鉄門海に由来するものだという。また、海向寺の住持を務めた忠海上人(チュウカイショウニン 1698~1755)と鉄門海の弟子である円明海上人(エンメイカイショウニン 1768~1822)の即身仏が保存されている。写真は海向寺本堂と粟島観音堂。