江戸時代

厳島神社

(イツクシマジンジャ)


厳島神社

時期:江戸初期

作成年:寛永5年

厳島神社(いつくしまじんじゃ)は別名今町の弁天さんといわれる。社伝によると寛永5年(1628)了現院永山という人が弁財天尊を勧請し今町の鎮守とした。弁財天は音楽、財福、智慧を司る天。妙音天・美音天・大弁財功徳天ともいう。七福神の一つ。今町は昔、酒田三遊所の筆頭とされ芸娼妓でにぎわった。その当時、厳島神社は花柳界の人々のあつい信仰を得ていた。

 


 

初真桑の句会

(ハツマクワノクカイ)


あふみや懐紙

時期:江戸前期

作成年:元禄2年

所蔵:本間美術館

松尾芭蕉(マツオバショウ 1644~1694)は酒田で、寺島彦助宅・伊東不玉宅・近江屋三郎兵衛宅で句会を開いている。近江屋三郎兵宅で行われた句会は「あふみや懐紙」に句会参加者の句が記されており、芭蕉が詠んだ「初真桑四にや断ん輪に切ん」は芭蕉の真筆と言われている。芭蕉は酒田に9日間滞在したが酒田に残る芭蕉の真筆はこれのみである。現在、「あふみや懐紙」は本間美術館が所蔵している。

 


 

六俳人の碑

(ロクハイジンノヒ)


六俳人の碑

時期:江戸中期

作成年:天明5年

所蔵:酒田市立光丘文庫

泉流寺にある「六俳人の碑」は美濃派の六人の供養塔である。六俳人とは梅花仏(各務支考)・百合仏(武長百合坊)・玄武坊(神谷玄武坊)・漸伸仏(竹内芦錐)・黄梅仏(伊藤花笠)・梅亭仏(竹内魯秀)。美濃派は松尾芭蕉の十哲に挙げられる各務支考(カガミシコウ 1665~1731)が俗談平和の俳諧で仏教を伝えようとした俳諧であった。写真の一番左端にあるのが美濃派の象徴とされる各務支考の鑑塔(かがみとう)である。「六俳人の碑」は酒田が美濃派の中心地になっていたことを証明する石碑と言えるであろう。写真は『方寸』第5号より引用した。

 


 

転封阻止運動

(テンポウソシウンドウ)


文麟和尚の肖像画

時期:江戸後期

作成年:天保12年

所蔵:酒田市立光丘文庫

天保11年(1840)11月、突如、幕府より庄内藩主・酒井忠器(サカイタダカタ 1787~1854)を長岡へ移封し、庄内には川越藩主が転封するようにとの厳命が下った。世に言う「天保の御国替え」である。長岡は7万石であり、庄内14万石の半分に過ぎず、酒田湊を有することを考え合わせると、さらに大きな減封であった。庄内藩では藩民をあげての転封阻止運動を展開した。特に農民の反対闘争は激を増した。酒井家が転封され、新領主が入部すると最も困るのは、再検地ときびしい重税を課せられることが予想される農民であった。川北遊佐郷江地村玉龍寺の文麟和尚は、酒田・鶴岡の民衆を指導して幕府あるいは隣藩にその苦渋の心を訴えた。飽海の農民約千人が五丁野地(現酒田市遊摺部地内)に集合し、転封反対運動を展開した。農民達は阻止運動の際、「民は是れ国の本、もとより国を安ず」「農民たりとも二君に仕えず」等々のぼりを掲げた。天保12年(1841)7月12日「転封の沙汰に及ばず、そのまま庄内領地たるべし」との奏書を受け転封はなくなった。『夢の浮橋』は転封中止後まもなく、当事者の一人、真柄小文治(文麟の弟)によって文書・記録が集められ、場面ごとに大柳金右衛門の手によって描かれたものである。内容は、江戸直訴密談に始まり、農民がむしろ旗の下に大集合の場面、雪中の山越えや嘆願・直訴の場面を経て、領地替え差し止めの使者の到着、大願成就を祝う場面などが劇的に描かれている。写真は『夢の浮橋』から23葉と文麟和尚の肖像画。

夢の浮橋 1












夢の浮橋 2










夢の浮橋 4







 


 

秋葉神社

(アキバジンジャ)


秋葉神社

時期:江戸前期

秋葉神社は防火・鎮守の神である味鉏高彦根命(アジスキタカヒコネノミコト)、大国主命(オオクニヌシノミコト)を祀る。酒田には数社の秋葉神社がある。概ね創祀は貞享年間(1684~1687)である。酒田はいかに火災が多かったかは秋葉神社の存在が物語っている。写真は上内町と下内町の秋葉神社。

 


 

山王社の祭礼

(サンノウシャノサイレイ)


慶長6年(1601)、亀ケ崎城主であった志村伊豆守(シムライズノカミ)は亀ヶ崎城内にあった日吉社を山王堂町に移し、山王宮(現・上日枝神社)として内町組、米町屋組の鎮守とし、また、藤ケ森の一隅にあった山王宮(現・下日枝神社)を荒町と上小路の角に遷座し酒田町の鎮守とした。これにより、山王宮は酒田三組の産土神(ウブスナノカミ)となった。酒田町の山王宮(現・下日枝神社)には南北両殿があり、南殿には山王神体の大己貴命(オオナムチノミコト)を奉安し、北殿には本地仏釈迦如来を安置していた。祭礼は慶長14年(1609)に行われ、陰暦中の申の日がその当日であった。正保4年(1647)には、時の町奉行・乙坂六左衛門(オツサカロクザイモン 生没年不祥)の発案により三町合同の祭礼がおこなわれ、渡御行列(とごぎょうれつ)が町中をねりあるくようになった。以来、山王祭りは酒田祭りと名前を変えたものの現在まで続き酒田市民の精神的支柱となっている。写真は明治・大正期の山王祭りの様子と下の日枝神社が所蔵する「山王祭礼行列図懸額」。

 


 

青原寺

(セイゲンジ)


青原寺には志村伊豆守の「追懐碑」「墓」「鎧甲」「志村家紋」などがある。志村伊豆守は、初め山形城主・最上義光(モガミヨシアキ)の家臣で、山形市長谷堂にあった山城、長谷堂(はせどう)の城主をつとめる。慶長6年(1601)最上義光の命により酒田を攻略。その功績が認められ東禅寺城代を任ぜられ、川北3万石を領した。寛永13年(1636)には亀ケ崎城内にあった日吉社を山王堂町に移した。慶長8年(1603)河口に大亀があがり最上義光の命で東禅寺城を亀ケ崎城に、大宝寺城を鶴ケ岡城に改めた。鵜度川原の青原寺は志村が長谷堂から移した寺である。

 


 

亀鉾

(カメホコ)


亀鉾

時期:江戸時代

亀鉾は最上義光(モガミヨシアキ 1546~1614)が庄内を支配していた時、庄内浜に大亀が上がったことに由来して本間光丘(ホンマミツオカ 1732~1801)が山王祭礼の山車として作らせたもの。以来、長きに渡り渡御(とご)行列の花形であった。現在(2018)の酒田祭り(山王祭り)では使用されていない。亀鉾は今、酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」で展示されている。

 


 

安種亭

(アンシュテイ)


安種亭令道・寺島彦助(テラシマヒコスケ 生没年不詳)は俳人であり、また、酒田港の浦役人として幕府米置場の管理にあたる。元禄2年(1689)、芭蕉が酒田に来た際、安種亭で俳諧興行を行った。その時、芭蕉は「暑き日を海に入れたり最上川」の名句を残している。酒田市本町3丁目に安種亭令道宅跡の標柱が建っている。

 


 

子産させの松

(コナサセノマツ)


子産させの松

時期:江戸中期

妙法寺(相生町二丁目)境内にある「子産させの松」は別名「油こぼし子産させの松」と言われていた、江戸時代には子授けや安産の松として知られ、妊婦や若い夫婦連れの参詣者が絶えなかったという。

 


 

常夜灯

(ジョウヤトウ)


常夜灯

時期:江戸中期

常夜灯は文化10年(1813)に北前船の船頭衆や廻船問屋によって回船の安全を近くの金比羅さんや山王さんに祈願するために建てられたものである。高さ約3メートルで、台座の周囲には西廻り航路寄港地の廻船問屋などの名が寄進者として刻まれている。日和山公園に鎮座しているが、展望台(文化10年~明治9年)→朝日山(明治9年~大正5年)→公園入口(大正5年~昭和59年)→現在地(元朝日山があった場所)というように、その設置場所は時代によって変化している。

 


 

松林銘

(ショウリンメイ)


公巌和尚 肖像

松林銘

時期:江戸中期

本間光丘(ホンマミツオカ 1732~1801)は自費を投じて下の山王社境内を基点として、南は最上川岸から北は高砂の境に達する延長1千間(約1.8キロ)東西250間(約0.45キロ)の植林を行った。その目的は風砂・火災の要因となる日本海から吹きすさぶ強風を防ぐためである。「松林銘」は文化13年(1816)本間光丘の植林の功に応えて酒田の有志が下の日枝神社の境内に建てたものである。撰文は本間家の菩提寺浄福寺住職の菊池公巌。写真は松林銘と公巌和尚の肖像画。

 


 

神明坂

(シンメイザカ)


神明坂

時期:江戸中期

神明坂は本間家第4代・光道(1757~1826)によって、文化14年(1817)に造られた港と市街地を結ぶ石段の坂道である。北前船の乗船者は神明坂を上り、金毘羅さんと神明さんに航海の安全を祈願したのち、酒田の街に入ったと言われる。写真は光道の作った神明坂と現在の神明坂。

 


 

金比羅神社

(コンピラジンジャ)


金比羅神社

時期:江戸中期

金比羅神社は海の神様を祀る。弁財船の船員らは酒田の街に入る前、先ず日和山皇大神社の境内にある金比羅神社に参詣して航行の安全を祈願したという。社殿の向かって左側には千石船の大きな四つ爪錙が置かれている。これは昭和15年、二隻の漁船が酒田沖で漁をしていた時、網にかかったものを金比羅神社に奉納したものである。

 


 

鐙屋

(アブミヤ)


旧鐙屋

日本永代蔵

時期:江戸

鐙屋家は廻船問屋を営み酒田三十六人衆の一つである。鐙屋の家事を伝えた「家の記」には「本国、何れの別れか詳らかならず」とあり、出自は明らかではないが、一説には鶴岡で曫屋(くつわや)を営み、慶長8年(1603)に最上義光(モガミヨシアキ)から鶴ケ岡城の追手橋の渡り初めのさい、鐙屋の屋号を賜ったとされる。鐙屋の本姓は池田である。井原西鶴(イハラサイカク 1642~1693)の『日本永代蔵』に「北の国一番の米の買入惣左衛門という名を知らざるはなし」と記されるほど鐙屋は豪商であった。なお、江戸期に鐙屋は酒田三十六人衆の代表格である「年寄」を務めた。鐙屋の面影を今に留める「旧鐙屋」が一般に公開されている。

 


 

庚申塔

(コウシントウ)


庚申塔

時期:江戸

庚申信仰の源流は不老長生を願う中国の道教である。考子の『三尸教』(さんしきょう)によると庚申の夜に、北極星の主・北帝は、おおいなる神秘の国の高い宮殿において、あらゆる罪料の門を聞き、すべての精霊から請願を受ける、とされる。一方、人間の体内中には青い老人、白姑と呼ばれる白い姫君、血尸(けっし)という血まみれの屍という三尸(さんし)の虫がいる。三尸の虫は人間が死ぬことによってしか体中から出ることができず、体内を牢獄と心得ているので、一日も早く死んでもらいたくてしょうがない。そのため庚申の夜には宿っている人間の罪科を最大もらさず、つぶさに北帝に報告するという。北帝は罪の軽重によって寿命を縮めるというから恐ろしいことこのうえないことである。そこで人間は三尸の虫が、その家のカマドから煙突を通って天に昇ってゆくことを知り、まずカマドにアメを塗って防いだ。次には、人が眠ると腹の中から鼻の穴を通って出ることを知り、眠らないようにした、これが庚申待である。どうしても一人では眠くなるので、数人が集まって夜が明けるのを待ったのが庚申講の始まりである。庚申塔は全国に散在し、また、庄内地域にも多く存在する。写真は下日枝神社の庚申塔。(参考文献 『続酒田ききあるき』田村寛三)