魚市場
(ウオイチバ)
大正2年(1913)5月大工町に酒田魚市場合資会社ができる。社長は荒木十一郎。翌年株式会社となる。
酒田町の紋章
(サカタマチノモンショウ)
町議会に調査委員を置いて検討の結果、大正4年(1915)酒田町章が制定される。図案考案者は上内町杉原伊兵衛ほか。市制施行後の昭和38年5月まで用いられた。写真は昭和30年(1955)酒田市市勢要覧より。
酒田線開通記念
(サカタセンカイツウキネン)
大正4年(1915)4月25日新庄・酒田間の鉄道開通式を行う。酒田町民にとっての宿願であった鉄道開通であったため、日和山公園に設けられた特設会場には万国旗を飾りつけ、今町・新町の芸妓140人が出演して祝賀芸能大会を開いたほか、駅の正面には緑門が置かれ、中町方面を含め、町全体が大変な賑わいとなった。大工町の写真で、左側にみえるサッポロビールの看板がある場所は、大工町角(現在の「てとて中町」の場所)にあった中常商店。新井田川を渡る機関車の写真は、現在の新橋二丁目側から駅方面を眺めたもので、まだ陸橋がないため、遠くの松林がみえる。観光名所が入った絵葉書は酒田線開通記念に発行され、酒田の名所の写真と説明が載っている。
光ケ丘松林
(ヒカリガオカマツバヤシ)
庄内海岸からの砂の害を防ぐため、江戸中期以降庄内藩植付役来生彦左衛門(キスギヒコザエモン)、酒田町佐藤藤蔵父子らによって砂丘の植林が困難にあいながらも行われていた。そのなかで本間光丘は、宝暦8年(1758)2月酒田西浜の植林を藩に願い出て許可され、植林事業を開始した。光丘は困窮した人々を雇い、10ヶ年計画で現在の下の日枝神社境内を基点として南は最上川川岸から北は高砂の境に達する約1.8キロの地に海風に強いといわれる能登の黒松を取り寄せて植林した。光丘没後も植林事業は代々本間家で引き継がれ、現在の光ヶ丘の松林が造られた。写真は大正期の様子。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版下巻』)
酒田高等女学校グランドピアノ
(サカタコウトウジョガッコウグランドピアノ)
大正12年(1923)5月28日県立酒田高等女学校の創立25周年記念式典が開催される。この時同窓会より写真のドイツホインリッヒ会社製ピアノが寄贈された。式典のあとの記念学芸会では寄贈されたピアノの披露をかねて合唱が多く行われた。写真の絵葉書は創立25周年記念に同窓会で作成した。(参考文献 酒田高等女学校有煒会『有煒会誌第19号』)
地名「光ケ丘」の命名
(チメイヒカリガオカノメイメイ)
本間光丘(ホンマミツオカ 1732-1801)の功績に対して大正7年(1918)10月、国より正五位が贈られたことに伴い、大正8年(1919)2月酒田町では町会の議決により光丘が植林した松林の地名である「新町字長坂」を「新町字光ケ丘(ヒカリガオカ)」と変更する。これを契機に光丘神社(ヒカリガオカジンジャ)の創建を目的とした本間光丘翁頌徳会が設立され、財団法人光丘文庫の創設へと繋がっていくのである。写真は、大正8年2月18日の町会に提出された議案と当日の会議録。
持地院大仏
(ジチインダイブツ)
大正3年(1914)11月8日持地院境内に銅の大仏を建立する。住職大瀧宗淵の発願と、施主佐藤善兵衛その他有志の寄附により、身長4丈3尺(13m)の大仏を建立する。本山永平寺貫主森田悟由が新井石禅とともに開眼式に臨む。当時、立像では日本一高いと称され、酒田の名物となっていたが、太平洋戦争の際に供出された。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史年表改訂版』)