上水道布設工事
(ジョウスイドウフセツコウジ)
酒田町の上水道は大正14年(1925)から水源の水質調査が行われ、昭和元年に上水道布設工事の設計を始める。その後昭和3年5月に町会の決議を経て国に認可を申請した。昭和4年(1929)国からの認可を受け、5月に起工式を行う。翌年10月末に工事が完成した。(参考文献 酒田町役場『酒田町水道概要』)
上水道竣工
(ジョウスイドウシュンコウ)
昭和4年(1929)5月から始まった酒田町の上水道布設工事は、翌5年10月末に完成。上水道の水源は南平田村大字砂越と中平田村大字小牧にまたがる地域の最上川右岸新堤防内の伏流水とし、浄水場で洗浄したのち送水管へ送り、配水場を経て各家庭に送っていた。同年11月11日に竣工祝賀会が行われた。この際、水道工事余剰金が祝賀会費に使われたことを不満に思う町民が町政を批判する集会を行ったが、切り崩しにあって運動は沈静化した。(参考文献 酒田市史編纂委員会編 『酒田市史改訂版下巻』 酒田町役場『酒田町水道概要』)
酒田港修築工事
(サカタコウシュウチクコウジ)
昭和4年(1929)酒田港が第二種重要港湾に指定され、同8年(1933)5月24日酒田港修築工事の起工式が行われた。同年4月に市制施行したばかりの酒田市は市の重要課題の一つに港の整備をあげており、計画の実現に向けてようやく歩み始めた。翌年中央突堤と船場町の岸壁が完成、同11年(1936)には西埠頭が完成するなど着実に港の整備が進められた。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版下巻』)
酒田・飛島間無線電信電話開通
(サカタ・トビシマカンムセンデンシンデンワカイツウ)
昭和8年(1933)11月21日酒田・飛島間に宇田式超短波無線電信電話が開通した。これまで飛島までは船しか連絡手段がなく、迅速な方法が求められていた。わが国初の宇田式超短波無線の実用化であった。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『写真でみる酒田市史』)
飛島全景
(トビシマゼンケイ)
飛島は酒田港より北西へ約39キロメートル離れた日本海に浮かぶ孤島である。飛島の成り立ちとして、鳥海山が噴火した際、その一偶が吹き飛ばされて島となったという伝説を有す。飛島が史料に顔をだすのは、戦国末期の永禄以降である。その後の飛島の史料によると、仁賀保氏、最上氏が仕置きしたのち、酒井家入部以来、飛島は庄内藩の支配となった。時代が明治の世に変わると、明治22年に勝浦村、浦村、法木村の三村が合併して飛島村が誕生した。昭和25年に飛島村は酒田市に編入された。飛島の景勝地としては、オシャク島、賽ノ河原、盤の磯のテキ穴、トド島、メクラ島、材木岩などが挙げられる。飛島の植物も多種多様だ。特にトビシマカンゾウは酒田市の花となっている。また、飛島は渡り鳥の中継地点であり、約245種の鳥が飛島で観ることができる。この写真は昭和10年前後と思われる。
商工会議所
(ショウコウカイギショ)
酒田の商工会議所は明治30年(1897)に酒田商業会議所が創立されたことにはじまる。初代会頭は小山太吉。昭和3年(1928)商工会議所法施行により酒田商工会議所と改称。同9年(1934)10月、本町5丁目(現セブンイレブン酒田本町3丁目店隣駐車場)に事務所を新築した。設立以降商工業の中心機関として鉄道の敷設・港湾の修築などの問題に取り組み、酒田の発展に尽力した。写真は同11年(1936)10月30日に当時の会議所議員が記念撮影したもの。昭和42年(1967)に現在の酒田産業会館に移転する。(参考文献 酒田商工会議所『酒田商工案内昭和9年版』酒田市議会事務局『酒田市議会史記述篇上巻』)
酒田興亜国防博覧会
(サカタコウアコクボウハクランカイ)
昭和16年(1941)7月25日から8月28日まで日和山公園を会場に「酒田興亜国防博覧会」が開催された。この博覧会は日中戦争のさなかで国防知識の向上などのために各地で開催されており、陸軍海軍両館では戦車、戦闘機、軍服、軍艦模型などが展示され、不思議館(おばけ屋敷)、スリル館(オートバイ曲芸)などの娯楽施設も設置されていた。また同時に7月18日から8月21日まで第二会場の山居広場では国防科学博覧会が開催され、国防兵機科学館など11館があり、なかでも日光館では日光東照宮の縮小模型が出品された。入場料は第一会場が60銭(前売り50銭)、第二会場が50銭だった。写真は酒田興亜国防博覧会の内容一覧とパンフレット両面。
新潟地震
(ニイガタジシン)
昭和39年(1964)6月16日13時1分55秒、マグニチュード7.7、震度5の新潟地震がおきる。酒田市では死者1名、重傷5名、軽傷9名の被害があり、地割れ・家屋の倒壊など大きな被害があった。国道7号線の広野地区で道路の中央から地割れし、国道47号線では地割れ・陥没が数多く、また農地も隆起や陥没などの被害を受けた。上水道では送水管60ケ所と排水管78ケ所で亀裂折損し、6月17日~19日まで完全断水し、20日からは時間給水となった。写真は『新潟地震酒田市災害記録』より。(参考文献 酒田本の会『酒田市制50年』酒田市総務課『新潟地震酒田市災害記録』)
酒田港が第二種重要港湾に指定される
(サカタコウガダイニシュジュウヨウコウワンニシテイサレル)
明治期からはじまった最上川改修工事とそれに付帯する港改修工事によって酒田港は日本海沿岸の拠点として港湾利用が活発になっていったが、なお一層の発展の為さらなる拡張工事が必要になっていた。昭和4年(1929)6月24日酒田港が第二種重要港湾に指定され、翌月の7月25日盛大な祝賀会が開かれた。午後2時からは仮装行列が市内を練り歩き、夜には花火が打ち上げられた。この時の花火は以後も続けられ、現在の港祭り花火大会につながっている。(参考文献 酒田商工会議所『酒田商工会議所報第61号』酒田市史編纂委員会編『酒田市史改訂版下巻』)
飛島村
(トビシマムラ)
昭和25年(1950)4月1日酒田市と離島の飛島村が合併する。合併翌年の酒田市の人口は55,036人(男26,295人、女28,741人)、世帯数11,503世帯。写真は『庄内の観光』より。(参考文献 酒田市『昭和27年版酒田市勢要覧』)
浚渫船最上号
(シュンセツセンモガミゴウ)
昭和4年(1929)11月内務省最上川改修事務所では坂上丈三郎主任指導のもと冬枯れで水量の減じた時期を利用して今の市営体育館付近で最上川をせきとめ、港と川を分離する工事を開始する。浚渫船は最上号と砂潟号で、他にトロッコを用いた。(参考文献 酒田市史編纂委員会編『酒田市史年表改訂版』)