注釈


7月24日
むぎ落し
麦打ちのことか。刈った麦を打ちつけ、実を落すこと。


7月25日
襦袢
肌につけて着る和装用の短衣。はだぎ。垢取り。汗取り。


7月28日
佐藤眼医師
下ノ山の眼科医、佐藤清治。信仰心厚く、明治12年(1879)医師桜井晋とともに酒田仏教青年会を創始、同23年(1890)から酒田における児童のトラホーム撲滅のために挺身した。十全堂の会長をつとめて、長く飽海郡医師会長として在任する。
『庄内人名辞典』より


7月30日
ヴァイオリン
7月22日有煒会(同窓会)の第1回音楽部大会が開催された。当時女学校で音楽指導にあたったのは、宮内省雅楽師をつとめ国歌「君が代」の作曲をした奥好義(おくよしいさ)である。女学校校歌も作曲した。非常に熱心な指導だったといわれている。奥好義は安政5年9月京都生まれ。雅楽専業の家系、元天王寺楽家秦姓林氏の一族で奥好学(よしたか)の次男。12歳より雅楽局楽人となる。雅楽演奏のかたわら洋楽を習得、ピアノを学び、音楽取調掛御用掛、女子高等師範学校助教授などを兼任する。酒田高等女学校には明治36年から42年12月まで7年間在職。料亭小幡などに下宿していた。昭和8年、死去。


7月31日
遠き外国
10歳上の姉の夫は朝鮮龍山鉄道会社に勤務していた記録があることから、韓国に住んでいたと思われる。龍山線は日露戦争の物資輸送のために日本が漢城から中国国境の新義州までを突貫工事で結んだ京義線が起源となっている。
 
字を習はくちゃ
当時、酒田高等女学校で習字を教えていたのは書家の山口半峯。明治2年1月2日、酒田町筑後町生まれ。幼少の頃から書を得意とし、明治26年中等学校習字科の免許を得て、酒田高等女学校の書道教師となる。書道の大家・長三洲に師事し、31年に酒田へ東北臨池会を設立、地方の書道の振興に尽力した。その後上京し、会計検査院に勤務、明治44年大日本臨池会を創設する。大正3年宮内省に入って貴重文書の浄書に当り、大正9年文部省から小学校国定教科書習字手本の揮毫を委託された。同年東京商科大学講師となり、以来執筆した中等学校習字教科書は十数種に及んだ。昭和14年1月30日、71歳で死去。


8月2日
山形赤十字社
ジュネーブ条約の加盟により、日本が国際赤十字の一員となった翌年の1887年(明治20年)、前身組織である博愛社が名称を「日本赤十字社」に改め、地方委員及び支部規則が制定された。同年、山形県に日本赤十字社山形委員部が設置され、1896年(明治29年)に山形委員部を山形支部とする。明治38年4月16日付の酒田新聞には本県3月末社員総数は17,985人とある。
 
アハシマ神社
粟嶋水月観音堂(あわしまさん)のことか。海向寺の境内に建てられている。江戸期以来、女性一代の守り観音さまとして信仰を集め、特に縁結び、安産成就、子授け、婦人病の安泰を祈る人々の心の拠りどころとなっている。 湯殿山木食修行を経て即身佛となった当山八世、鉄門海上人が在任した文政年間、 新潟への布教の帰りに粟島で難産に苦しむご婦人の平癒祈願を施し、にわかに身体の安泰を呈したことにより、当主脇川家(現在 民宿脇川治郎作)より賜った秘石、「粟嶋水月観世音」を持ち帰ってこのお堂に奉安したことに縁起由来している。(海向寺HPより)
 
宵の夜
宵宮、夜宮のことか。神社の祭りの前夜に行う小祭。宵祭。8月1日~3日は粟嶋観音夜会式。
 
月み見れば
「月みればちぢにものこそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど」-『古今集』193番、百人一首23番の大江千里の歌。


8月9日
写真
明治38年(1905)の『荘内案内記』によると酒田に写真館は少なくとも佐藤美影軒(秋田町)、佐藤華影軒(新町)、池田玉影軒(下台町)、家坂徳翠軒(出町)の4軒があった。また明治時代後期に小型軽量化されたカメラが発売され、趣味で購入する富裕層もいた。いずれにしても写真は高価で庶民の手の届くものではなかった。


8月10日
湯の浜
湯野浜温泉のことか。


8月11日
外家
外戚。母方の親族。


8月17日
豊年なれや
『酒田市史』によると、この前年(明治38年)は7月下旬から8月にかけての低温や霖雨性冷気と日照不足、さらに稲熱病も蔓延して凶作であった。


8月19日

裏地つきの着物。近世には陰暦4月1日から5月4日までと9月1日から8日まで着る習慣であった。


8月23日
伏屋
地面に伏せたように軒の低い小さな家。みすぼらしい家。
 
桧山校長
明治38年2月から酒田高等女学校勤務。同10月校長に任ぜられる。女学校校歌の作詞者。明治44年、私立酒田幼稚園の初代園長を兼任。


8月29日
(コエ)
こやし。肥料。肥料にする糞尿。


8月30日
料理
『山形県立女学校一覧』には、女学校に来校した県会議員らに生徒の調理した割烹を試食させたとある。


8月31日
不景幾
酒田市史には「日露戦争は、軍事的には日本が勝利したものの、財政的には莫大な負担を残し危機的な状況に陥った」とある。また前年の凶作も影響していると思われる。